誰かを傷つけた過去、責任どこまで 作品と人格は別か

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聞き手・岸善樹 聞き手・大牟田透 聞き手 編集委員・塩倉裕
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 東京五輪開会式では、かつての発言や表現をめぐり関係者が相次いで降板した。誰かを傷つけた過去の責任は、どうすれば果たされるのか。その人の作品も過去を背負うべきなのか。

作品と作者を同一視するかどうかは読者の自由、そこは引き受ける 中村文則さん(作家)

 僕はドストエフスキーが好きですが、彼のエッセイなどでは、ユダヤ人に対してよくない描写があります。そこは好きでないし、嫌な気分になります。

 それでも読むのは、もし彼が後に起こるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を知ることができれば、自分も差別の一端を担ったのではと感じるはずで、絶対に悔いると思うからです。彼は温かな人道主義者でしたから。

 19世紀以前の文学作品には、ユダヤ人についての悪い描写が結構出てきます。でもホロコーストの前だから仕方がない、とすぐに思うのではなく、時代背景を考慮してもなお、「その部分は駄目だ」と判断する必要がある。ホロコースト後でもそれを続けていたら、もう論外ですが。

 「作品と人格は分けて考えるべきだ」という意見はあっても、押しつけるものではないと思います。ドストエフスキーは賭博にはまって私生活が駄目でしたが、そんな人の作品は嫌だ、と思うのも別に自由です。ケース・バイ・ケースで、受け手がその都度、しっかり判断すればいいのでしょう。

記事後半では、軍事史学会理事の小菅信子さんが「炎上を超え、焼き尽くす」ことも起きるネット時代にどうすれば和解できるかを考えます。また、法哲学者の瀧川裕英さんは「法の世界には時効もあるが、社会的責任は時が経てば免責されるわけではない」と語ります。

 僕としては、作品と作者を俯…

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