五輪の「多様性と調和」はフェイク?パラで考えたい宿題

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木佐貫将司
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 コロナ禍での開催是非が問われ続け、全日程を終えた東京五輪は「多様性と調和」を掲げた。だがそれは「批判をかわすためのフェイク」と語るのが、スポーツとジェンダー・セクシュアリティーを研究する関西大学文学部の井谷聡子准教授だ。東京パラリンピックもせまるなか、東京五輪で浮き彫りになった問題とは、パラリンピックに持ち越された「宿題」とは――。井谷さんに聞いた。

 ――「多様性と調和」を掲げた東京五輪が終わりました。

 結局、多様性と調和はかけ声に終わりました。森喜朗元首相などの組織委幹部から開会式の演出の関係者まで、女性や人権を軽んじる人が多くみられました。生活保護受給者やホームレスなど、貧困者への差別問題も改善されないままです。

 IOCは従来の五輪と同じように、「勝利至上主義」や「ナショナリズム」、「商業主義」という批判をかわすため、多様性をトリックとして使っただけです。

 ――五輪の「競技性」について、「より速く、より高く、より強く」を掲げた競技性をとらえ直そうという井谷さんのインタビュー記事に「競技から生まれるドラマや楽しさもある」など、反発するコメントが多くつきました。

 五輪の競技性とは、簡単に言うなら「勝者以外たたえない」という「勝利至上主義」です。これは、子どもたちの鬼ごっこのように「遊びで楽しむ競技性」とは全く異なるもので、明らかに「多様性と調和」と矛盾しています。

 メダルの色や順位だけで、選手のパフォーマンスやそれまでの努力がはかれるでしょうか。例えば4位でメダルを逃すと、選手が国内で誹謗(ひぼう)中傷を受けるケースもみられます。

 勝利至上主義がナショナリズムと結びつく時、国民の期待を背負った選手は負けると、「ごめんなさい」と謝る。メディアや国民は選手の順位で一喜一憂しますが、応援は選手に向けてなのか、自国民としての「誇り」に向けてなのか、一度考えるべきです。

トランスジェンダーの選手の参加は「多様性につながらない」。選手の活躍に熱狂する背景には「他国に勝ちたいという感情がある」。そして、パラリンピックは「多様性をトリックに利用する五輪と通じる問題がある」。井谷さんの厳しい指摘が続きます。

 ――東京五輪では初めてトラ…

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