艦砲射撃、赤い洋服、教え子の死 94歳は語り続ける

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林瞬
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 【茨城】戦争の語り部を続ける水戸市の三橋昭子(てるこ)さん(94)は、18歳で身近な人の死に初めて出合った時のことを鮮明に覚えている。

 1945年7月、教壇に立っていた小学校がある河原子町(現日立市)が、海からの艦砲射撃にあった。翌日、様子を見るために町を歩くと、見覚えのある赤い洋服が木の枝に掛かっていた。

 近寄ってみると、教え子だった女の子の遺体の一部が近くにあった。「恐ろしかった。人の死なんて、考えられない年齢だったでしょう。亡くなったのは小柄なかわいい子だった。もっと一緒に話したかった」。この出来事で、戦争というものの怖さを身近に感じたという。

 三橋さんは、父が亡くなった3歳の時に、横浜市から母の実家があった水戸市に引っ越した。生活は苦しかったが、「勉強がしたい」と頼み込み、女学校に入学した。

 戦争が始まったのは、その年の12月。「これから勉強というときで、さみしい気持ちになりました」。テニスコートは、ジャガイモ畑になり、昼間は工場や農家の手伝いに駆り出された。大好きな勉強は、夜中にこっそり続けた。

 45年の8月2日未明、焼夷(しょうい)弾爆撃が水戸市を襲った。「外が明るい」。家から出ると、火が町を包んでいた。位牌(いはい)と家系図だけを持って、足のすくんでいる母の手を引いて必死に逃げた。

 翌日、家があった場所に戻ると、近所の年老いた夫婦が空襲で亡くなった孫の遺体に「代わってあげたかった」と泣きすがっていた。「かわいそうだと思った。でも、あの時は必死で、母と私の2人が助かってよかった、ということしか考えられなかった」

 三橋さんは、4年前から、語り部として伝え続ける。「ずっと、自分の身を守ることで必死だった。戦争は、もう二度とあってはいけないと思います。昨日まで一緒に遊んでいた子が死ぬのが戦争です」

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 自分の身には起きない、なんとなく遠いこと――。若手記者の私たちは、戦争をそんな風に捉えていました。戦後76年目の夏に、体験者の方の話を伺い、「戦争とつながる」ことについて、考えました。

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