いっこく堂さん7カ国語の腹話術 話せなくても秘訣あり

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聞き手・山根祐作
【動画】七つの外国語を操り、世界各地で公演をしてきた腹話術師のいっこく堂さん=杉本康弘撮影
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 腹話術師のいっこく堂さんは、これまで七つの外国語を使い、世界中で20におよぶ国と地域で、公演をしてきました。でも、決して外国語が流ちょうにしゃべれるわけではありません。猛練習によって外国語のセリフを「丸暗記」して公演に臨み、言葉も文化も違うお客さんたちと、心のつながりを築いてきたのです。「言葉は気持ち」といういっこく堂さんの実感は、公演のみならず、日常での外国人とのコミュニケーションにも通じるように思えます。

いっこくどう 沖縄県出身。本名・玉城一石(たまきいっこく)。1963年に神奈川県で生まれ、5歳から高校まで両親の故郷・沖縄で暮らす。ものまねタレント、舞台俳優を経て、92年に独学で腹話術を始め、高い技術が注目される。英語や中国語、韓国語フランス語など7カ国語を使い、アジア、米国、欧州など20の国・地域でツアー公演を行う。著書に半生をつづった「ぼくは、いつでもぼくだった。」(くもん出版)。

 インタビューは、いっこく堂さんと「外国」との出会いの場ともなった思い出話から始まりました。それは、米軍統治下の沖縄で過ごした少年時代……。

 ――いっこく堂さんは沖縄育ちですね。子どもの頃、外国人や外国語に接することはありましたか。

 「アメリカ軍の嘉手納基地が近くにあったんです。本当はいけないんですけど、僕らは友だちと一緒にこっそり入り込んで、基地の中で遊ぶこともありました。警備をしているアメリカ人兵士に捕まったり、怒られたりもしましたけど、向こうも英語で何か言っても僕らはわからないと知っていて、片言の沖縄の方言を覚えて話しかけてくる人も多かったんですよ。例えば「Oh my God !(何てことだ)」のような意味になる「あぎじゃびよー」とか「あっさみよー」とかいった感じで、それが僕ら子どもにはウケていました。方言を覚えて話しかけてくれた兵士のことを、やさしい人なんだな、とも思いました」

 ――周りで英語を話せる人はいたのですか。

 「英語がしゃべれてすごいなと思った人は、うちの母なんです。母は英語がしゃべれるんですよ。なぜかというと、中学を卒業してから、基地の中のアメリカ人家庭で、住み込みのメイドとして働いていたことがあるんです。僕が幼稚園ぐらいのとき、酒に酔って暴れているアメリカ軍の兵士を、母が英語で注意して追い払ったことがありました。見ていた周りの人たちも『いっこくのお母さんすごいね』『英語しゃべれるんだね』などと感心していて、ちょっと鼻高々だったことを覚えています」

 「小学校に入学する年の春、両親が『サンドウィッチショップたまき』という食堂を始めました。『サンドイッチ』ではなく『サンドウィッチ』にしたのも、その発音が母の印象に残っていたからのようです。アメリカ軍の兵士たちがたくさん食べに来てくれて繁盛していました。でも、1970年のコザ騒動(米兵車両に住民がはねられた事故を端緒に、住民が米軍への不満を爆発させた事件)以降は、兵士たちは基地の外を出歩かなくなり、食堂も閉店せざるを得なくなりました」

 ――72年に日本に復帰する前の沖縄で子ども時代を過ごしたことで、その後の外国や外国人への見方に何か影響を受けたと思いますか。

 「よく、沖縄イコール、チャンプルー文化、全部まぜこぜの文化みたいに言われますが、日本、沖縄、アメリカ、他の国もフィリピンの方とか結構いらっしゃいましたし、無国籍、多国籍的な雰囲気に触れられたというところはよかったのかなと。国籍を超えたつながり、人と人として、国に関係なくつきあえるという基盤にはなっていると思います」

 ――中学、高校時代は英語の授業は好きだったのですか。

 「今しゃべれるわけではないのですが、当時、英語は好きだったんですよ。中学校のときの定期テストでは、1回か2回、97~98点を取った以外、あとは全部100点でした。発音は全然駄目だったんですけど、母親がしゃべれたということもあって、自分も英語がしゃべれるようになりたいという思いがあったんですかね。高校では、授業料免除の成績基準を超えるため、1、2年生のときは全科目がんばって、学年で成績最上位をキープしていました。でも、その成績基準を見るのは2年生までで、3年生になると、大学に行こうという気持ちもなかったので、成績はすごく下がってしまいました」

 ――高校を卒業して上京し、ものまねタレントや、舞台俳優を経て、独学で習得した腹話術で活動を始められました。2体の人形を同時に操ったり、時間差の腹話術を編み出したりと、これまでに誰も見たことがないような高い技術で注目されるようになります。この間に、英語など外国語を学んだことはあったのですか。

 「それはなかったですね。その当時は本当に腹話術についてだけを考えていて、とにかく技術を上達させたい、という思いだけでした。腹話術では不可能とされていた、唇を1回くっつけて離さなければ出せないマ行、バ行、パ行の発音をいかに言えるようにするかということに立ち向かっていたので、毎日が腹話術一色でした。頭の中で、将来アメリカでやろうなんて意識も全くなかったですね」

 ――それが2000年に、米国のラスベガスで開催された「世界腹話術フェスティバル」のオープニングパフォーマーに抜てきされました。とても急なオファーだったと聞きましたが、どのようにして準備されたのですか。

 「フェスティバルへの出演が決まったのは、わずか40日前のことでした。でも、英語は全く話せない。決めたのは、『もう丸暗記でいこう』ということでした。アメリカ人の先生について、35分ほどのネタを録音してもらって、それをひたすら覚えました。最初は、あまり意味なんか考えずにとにかく覚えようと。仕事を少しセーブして、それ以外の日常生活の中で、小さいカセットテープレコーダーを片時も離さずに持って、それこそ寝るとき以外はずっとテープを聞いて、話して、聞いて、話してと繰り返しました。その時、英語のセリフを覚えるのは、歌を覚える感覚と同じだな、と感じました。音程とリズムで覚えていったんです」

 ――いっこく堂さんの腹話術…

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