高校野球500試合以上を実況した元アナ 植草貞夫さん

抜粋
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 これまで多くのゲストに甲子園球場にお招きし、熱戦をご覧いただきました。今夏の球児らへのメッセージとともに、「観戦記」の一部を再びお届けいたします。

植草貞夫さん(元朝日放送アナウンサー)

 去年は中止になりましたから、観客が入らなくても、少し幸せですよね。やれるだけありがたいのではないでしょうか。私はテレビの前で応援しています。

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(2003年8月9日 第85回大会 広陵3-0東海大甲府ほか観戦)

 今日は「庭」に帰ってきた。ここに来ると、体調が悪くても、すっと良くなるんですよ。ほかの球場じゃ、だめなんです。甲子園でないと。

 高校野球は実況約40年、そのうち決勝が28回。500試合以上は話した。1969年の松山商―三沢、79年の箕島―星稜の延長十八回など、数々の名勝負に立ち会った。中でも一番印象に残っていると言えば85年決勝の宇部商とPL学園。この大会のPL・清原と宇部商・藤井のホームランはすごかった。

 「甲子園は清原のためにあるのか」

 このフレーズは清原が2本目に打った時だったと思う。一塁ベースを回って清原の姿がアップになったところで、自然と口から出た。

 プロに入った清原は調子が悪い時、高校時代のビデオをすり切れるぐらいまで何度も見たそうです。当然、何度も私の言葉が出てくる。「植草さんの言葉がぼくの伝説の始まり」みたいなことをテレビで言ってくれたと聞き、うれしかった。

 有名選手だけじゃなく、街で会った元球児に「ぼく、植草さんに名前を呼んでもらえたんです。うれしかった」と言ってもらうと、冥利(みょうり)に尽きますね。

 若いころは、自分の話す技術を披露する場、みたいに考えていた。「一番上手だと言われたい」。そんな思いだった。

 入社8年目の62年、5月に生まれた娘を7月に亡くした。その夏は、元気にプレーする若者にやきもちをやいた。言葉も感傷的になった。

 79年ごろは次男が高校球児だったから、親の気持ちになった。そうやって年数を重ねるうちに、だんだん自然なしゃべりになっていきました。

 妻に言われました。「若いころはかみそりみたいにシャープだったけど、今のやわらかい感じの方がいい」と。

 松井の5敬遠が92年。「勝負しません」を20回言っただけ。若かったら、主張をいれたかもしれません。でも、目の前に起きていることを正確に伝えるのが、アナウンサーの仕事なんです。

 その妻が98年に亡くなった。キザな言い方だけど、一番の視聴者がいなくなった。だから、その夏を最後にしました。

 アナウンサーとしては接戦の方が盛り上がるから、つい負けている方に肩入れしてしまう。打算が入った見方ですね。テレビを見ると、「おれならこうしゃべる」って思ってしまう。素直に野球を楽しめない体になってしまいました。=抜粋(抜粋)

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 うえくさ・さだお 元朝日放送アナウンサー。1932年、東京都出身。88歳。早大から55年に入社、57年から高校野球の実況を始め、60年から決勝を担当。ミュンヘン五輪に行った72年を除き、88年まで連続して伝えた。プロ野球の阪神戦も数多く実況。92年の定年後も高校野球の実況を続け、98年に引退した。