そびえる高層建築、「国譲り」を暗示 古代の出雲大社

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編集委員・中村俊介
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 雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)――。

 貴族の子弟教育のために作られた『口遊(くちずさみ)』(10世紀)が語る、古代建築の背比べだ。東大寺大仏殿(奈良)や平安宮大極殿(京都)をしのぐ巨大構造物、それが島根県出雲市出雲大社だった。地上48メートル、ある試算ではのべ12万人余の労働力で工期6年というから、空前の大建設工事である。

 しかし、そんな高層ビル並みの建物が本当に、古代山陰の片隅に存在したのか。誰もが半信半疑だったのも無理はない。ところが2000年から翌年にかけて出雲大社の境内で、3本の巨木をひとつに束ねた直径3メートルにも及ぶ柱が、3カ所で出土した。宮司の千家国造家(せんげこくそうけ)に伝わる「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」の信憑性(しんぴょうせい)を裏付ける発見だった。

 出雲大社の創建時期ははっきりしない。が、同じ出雲市の青木遺跡で「大社造り」に似た奈良時代の遺構が確認され、そこに原形をみる意見がある。さらにさかのぼって『日本書紀』の斉明5(659)年には、ご当地の出雲国造に「厳神之宮(いつかしのかみのみや)」を修理させたとあり、これを出雲大社とみれば、7世紀にはすでに存在していたらしい。

 『古事記』をのぞいてみよう。葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるオオクニヌシに向かって、高天原(たかまがはら)の使者タケミカヅチらは「おまえの国をよこせ」と迫る。対してオオクニヌシが言うには、「代わりに大空にそびえる神殿を建ててくれ」。そこで、「国譲り」の代償を出雲大社とみるのが通説だ。建造主体をオオクニヌシの側とみる異論もあるけれど、とりあえず通説に従えば、国譲りのエピソードさながらに屹立(きつりつ)する高層建築の実在がいよいよ現実味を帯びてくる。

 一般に国譲りは、大和政権の…

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