投じた私財は家2軒分 「女子硬式野球の父」の夢が実現

小林太一
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 全国高校女子硬式野球選手権大会は第25回の今年、決勝の舞台に初めて阪神甲子園球場が使われた。女子野球の新たな歴史を築いたこの試合を、「女子硬式野球の父」と呼ばれる人物の遺影が見守っていた。

 23日の決勝の始球式。甲子園のスコアボードに「女子硬式野球の父 四津(よつ)浩平に捧ぐ」の文字が現れた。マウンドに上がったのは高橋町子さん(84)。四津さんと共に、大会の開催に尽力した元社会人野球選手だ。

 高橋さんや関係者によると、始まりは1990年代半ばのこと。古美術商で首都圏の大学の女子軟式野球部を指導していた四津さんは、仕事で中国を訪れた際、女子中高生の野球による日中交流ができないか相談された。

 中国側は硬式野球を望んだが、日本の女子で野球経験がある中高生は少なく、ソフトボールが主流だった。四津さんはソフトボール部がある高校を訪ねてまわったが、「硬球は危険」と断られ続けた。

 何とか都内2校のソフトボール部の協力を得て、95年に「日中対抗女子中学高校親善野球大会」の開催にこぎつけた。球場使用料や、まだ裕福でなかった中国選手の渡航・宿泊費などは四津さん個人の持ち出しだった。

 翌96年には韓国の高校を招いて計4校で大会を開いた。この両大会の経験が、全国高校女子硬式野球選手権大会につながった。

 四津さんは全国の高校に手書きのはがきを送り、返事がなければ電話をかけ、参加を呼びかけた。「硬式用の道具がない」と言われると硬球やバットを買って送った。

 中国との大会で球審を務めた高橋さんも、四津さんの熱意に動かされ、大会の準備や運営に関わった。高橋さんによると、四津さんは女子野球に投じた私財は「家2軒が建つほど」だという。なぜそこまで力を入れたのか。「女子選手にプレーする場を用意してあげたいという純粋な気持ちが伝わってきた」。高橋さんはそうふり返る。

 こうして97年、東京、兵庫、埼玉から5校が参加して、東京都福生市で第1回大会が開かれた。翌年、四津さんは全国高校女子硬式野球連盟を発足させた。

 その後、春の選抜大会も始まり、両大会の参加校数は徐々に増えていった。都内や埼玉県を転々としていた選手権大会の会場も、2004年からは選抜大会の会場になっていた兵庫県の旧市島町(現・丹波市)に移り、同町が主催に加わった。

 「決勝だけでも甲子園で」

 四津さんは04年に62歳で亡くなる前、周囲にこう話していたという。全国高校女子硬式野球連盟代表理事の浜本光治さん(65)によると、「男子と同じようにあこがれの舞台ができれば、競技人口が増えて技術が高まる」というのが四津さんの信念だった。

 その遺志を継いで浜本さんは大会運営を引き継ぐ傍ら、全国各地の高校に自費で足を運んで女子硬式野球部の創部を訴えた。

 浜本さんは23日、四津さんの遺影を抱え、甲子園ではつらつとプレーする神戸弘陵と高知中央の選手たちを見ていた。「感無量です。四津さんがこの光景を見たら跳び上がって喜ぶでしょう」と話した。(小林太一)