東京五輪「辞任ドミノ」 作品は断罪されるべきなのか

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定塚遼
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増田聡・大阪市立大教授(寄稿)

 議論を呼んだオリンピックが閉幕した。開会式のスタッフが、過去の言動や表現を問題視され辞任や解任に至る騒動となったが、コロナ禍の中で多数の反対の声を押し切った強行開催への人々の不満が、関係者の過去の不祥事への強い批判に姿をかえて表れたようにも思われる。

 開会式の冒頭の音楽を担当した小山田圭吾は、過去のいじめ行為を語った雑誌記事が批判を呼び、その音楽は使われることがなかった。もちろん彼のいじめについては全く擁護できない。だが、私が奇異に感じたのは、この件をめぐる議論の中で、作曲者の不祥事と作品の取り下げとの直結が自明視されていたことだ。多くの議論は小山田の過去の品行の評価や、それを掲載した雑誌編集の是非ばかりに集中し「いじめを行った作者の作品に罪はあるか」が問われることはほとんどなかった。

「作者の死」論 かつては隆盛

 ポストモダン華やかな頃には「作者の死」が唱えられ、作品とその作者を切り離す文化論が隆盛した。1980年代末に活動を開始した小山田の音楽もこの思潮の影響下にあり、パスティーシュやサンプリングに溢(あふ)れたその音楽に魅了された世代が熱烈なファン層を形作っている。ある意味で「作者の死」の思潮を体現する音楽家が、当人の過去の不品行により作品を撤回せざるを得なかったのは皮肉だ。

 しかし、作者の不品行があれ…

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