ついに話せた「佐藤喜一」の遺族 知られざる沖縄の恩人

有料会員記事知る戦争

編集委員・石橋英昭
[PR]

 沖縄戦のさなか、身を挺(てい)して人々を救おうとした宮城県出身の警察官僚がいたことは、沖縄でも宮城でもほとんど知られていない。多くの住民が巻き込まれた日米最後の地上戦。あの夏から76年、「佐藤喜一」の影を探した。

 私が佐藤喜一のことを知ったのは昨年8月。那覇市に住む山川宗徹(そうてつ)さん(82)が遺族を捜しているとの寄稿が、宮城の地方紙・河北新報に載った。

 喜一は現在の川崎町生まれ。内務省に職を得て、1941年秋から沖縄県警察特高課長に就いていた。

 45年4月、米軍が沖縄本島に上陸。5月末に首里が陥落すると、喜一は同僚らと沖縄南部の「轟(とどろき)の壕(ごう)」にこもる。抵抗を続ける日本軍と逃れてきた住民が、壕の中でともに息を潜めた。やがて米軍が包囲し、苛烈(かれつ)な攻撃を始める。

 日本軍は人々が壕から出るのを禁じた。「敵に投降する者はスパイとみなし処刑する」という方針だったのだ。極限状態の中、集団自決をはかろうとした住民もいた。壕にいた喜一ら警察・県庁職員が「住民が出るのを認めてくれ」と、軍人を説得したとされる。結局、数百人の住民が米軍に投降し、命をつないだ。喜一自身は「私は脱出し、内務省に戦況を報告しなければならない」と言って壕に残り、二度と姿を見せなかったという。

 寄稿は、喜一の行動を紹介し、「沖縄の恩人ともいうべき人のみ霊に、この文をささげたい」と結ばれていた。

 元沖縄県庁職員の山川さんは…

この記事は有料会員記事です。残り866文字有料会員になると続きをお読みいただけます。
知る戦争

知る戦争

平和への思いを若い世代へ託そうと、発信を続ける人がいます。原爆や戦争をテーマにした記事を集めた特集ページです。[記事一覧へ]