踏まれた側は忘れない 満蒙開拓団2世が見てきたこと

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聞き手・田中聡子
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 「星空の村」で有名な長野県阿智村。この山あいの村に戦前の旧満州に移住した人々の苦難を伝える満蒙開拓平和記念館がある。開拓団は国策で送り出された被害者だったが、中国侵略に加担した加害者の側面もあった。団員2世として、手弁当で同館の運営に当たる寺沢秀文さんに「不都合な真実」を直視する難しさを聞いた。

被害と加害、両方の側面 振り返りたくない過去だった 寺沢秀文さん(満蒙開拓平和記念館館長)

 ――記念館は公的施設ではなく、民間の運営なんですね。

 「1932年に中国東北部に建国されたのが『満州国』で、日本政府が食糧増産や農村の立て直しのほか、満州防衛の一端を担わせようと展開したのが満蒙開拓団でした。記念館には、開拓団の映像や写真、証言などさまざまな展示があります。この中に、外地を管轄した大東亜省が敗戦間際に出した『居留民は出来得る限り定着の方針を執る』という文書と、敗戦後に大本営参謀名で出した『満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす』という文書があります。政府が、残された開拓団ら在外邦人を『棄民』としたことを物語るものとされる文書です。ある公設資料館の関係者がこれを見たとき、『うちではとても展示させてもらえない』と話していました」

 ――それはどうしてですか。

 「行政はこの問題に、総じて後ろ向きだからです。戦前、国は100万戸を移住させる計画をたてて約27万人を送り込みました。敗戦間際にソ連が侵攻してきた際、開拓団は置き去りにされ、老人や女性、子どもの逃避行は悲惨を極めました。約8万人が亡くなったとされ、置き去りにされた子どもらの中国残留邦人の問題も生まれました。満蒙開拓はこれだけ犠牲を出したのに、公的機関などもこの問題に特化した資料館をつくろうとしませんでした」

 「記念館は8年前にできましたが、最初は官民共同での建設を願いました。国策として推進した国や行政、それを受け入れた国民両方にこの問題と向き合う責務があると考えたからです。しかし、当初段階では、積極的な支援は得られませんでした」

 ――なぜ行政はそんなに後ろ向きなのでしょうか。

 「誰にとっても、振り返りたくない過去だったのだと思います。満蒙開拓には満州国の支配やソ連国境の防衛といった軍事的な目的もありました。現地の中国人からみれば、開拓団は家や土地を奪った侵略者にほかならない。被害と加害、両方の側面があるのが、満蒙開拓団の真実なのです。被害者ならまだしも、加害者という負の側面については語りたくないというのが心情でしょう」

 「外地で起きたということもあるでしょう。開拓団は裸同然で帰国しており、歴史を伝えるための資料も乏しい。帰国後も、無一文のような状態で厳しい経済状況だった人も多かった。振り返る余裕がなかったともいえます」

満州で起こったことは、自慢して話すことではない「パンドラの箱」だったと語る寺沢さん。記事後半では過去の歴史を乗り越えるには、何が必要なのかについて聞きました。

未来で大切な人を守るためには、加害の事実にも向き合うことは避けられない

 ――開拓団員の反応はどうだったのでしょうか。

 「開館を応援してくれる人が…

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