「自分の始末を」渡された白い粉 時計台と歩んだ92歳

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芳垣文子
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 札幌市のシンボルである時計台とともにまちの移り変わりを見守ってきた女性がいる。創業95年を迎えた「マリヤ手芸店」(札幌市中央区)を切り盛りしてきた相談役の松村智恵子さんは、1928(昭和3)年生まれの92歳。戦後76回目の夏に、半生を振り返りながら、先の戦争の体験を語ってもらった。

 「マリヤ手芸店」は時計台のすぐそばのツタに覆われたビルにある。智恵子さんの母、本間テイさんが1926(大正15)年に創業した。手芸教室と材料販売を主にした、こぢんまりした店だった。父時之助さんは戦時中、北海道大学で軍事教官を務めた。智恵子さんは6人きょうだいで唯一の女の子だった。

 「小学校のころには日中戦争(1937年に勃発)のさなかで、徐々に食料事情が悪くなっていました。高学年になると、知り合いに野菜や芋類などを分けてもらいに出かけ、ジャガイモなどをリュックいっぱいに詰め込み、バスの中でこぼれ落ちて慌てたこともあります」

 41(昭和16)年、北海道庁立札幌高等女学校(現札幌北高)に入学。智恵子さんは学校に通いながら店を手伝った。学校行事で神社参拝が月1回あった。学校ごとにまとまって北海道神宮に出かけ「武運長久」を祈った。

 「勤労奉仕では、札幌市内の逓信局に配属になりました。病院の看護助手や市電の車掌の仕事をした友人もいます。逓信局での仕事は大きなずた袋に入った郵便物を確認する作業。全道から集まる袋には『千島』や『樺太』などと書かれたものもありました。終戦間近には袋がぬれていることがあり、厳しい状況だったのでは、と想像しました」

 「海洋訓練もありました。夏休み返上で銭函(ぜにばこ)(小樽市)の海岸に出かけ、浮けるようにすることと手旗信号の練習です。授業はほとんどなく、農園に手伝いにいく『援農』で畑仕事に精を出しました。大根掘りはうまくなりましたよ。草取りは一列になって、はるかかなたまで続けました。慣れない畑仕事で傷口からばい菌が入り、敗血症で亡くなった同級生もいました。学校葬でしたが、痛ましいお見送りでした」

 金属供出でアルミの弁当箱がなくなり、代わりに立派な塗り物の菓子鉢に中身は豆入りのごはんだけ、ということもあった。終戦間近になると、人から「ある物」を手渡された。

 「敵が攻めてきたら、女性は…

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