鳴かず飛ばずの時代、支えてくれた甲子園 山本譲二さん

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 これまで多くのゲストに甲子園球場にお招きし、熱戦をご覧いただきました。今夏の球児らへのメッセージとともに、「観戦記」の一部を再びお届けいたします。

歌手・山本譲二さん

 甲子園とは、口では言い表せない、いいものがあるし、甲子園が社会人になって多々助けてくれることがあるから、力いっぱいプレーをして、力いっぱい人生を生きてほしい。野球で培われたスポーツマン精神、ガッツと、負けん気と、素直さをもって、道はそれぞれ分かれていくだろうけど、大学生、社会人として頑張ってもらいたいと思っています。一般の観客が入らないのは残念だと思いますが、悔いのないように!

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(2016年8月18日 第98回大会 明徳義塾3-0鳴門ほか観戦)

 もう35年前になるんだなあ。甲子園のマウンドで「みちのくひとり旅」を歌った。テレビの仕事だったけど、聖地だけに気が引けた。そのとき以来の甲子園だな。

 五回表、鳴門のサード武石君がファウルフライを追う。ベンチの中へ左腕を伸ばして捕った! 彼は死ぬまで忘れないだろうね。

 僕は49年前の夏、甲子園に出た。背番号は10。甲子園に来る前にレフトでエラーして、レギュラー落ち。松商学園との1回戦は、0―3の九回表ツーアウトでやっと代打。カーブを打って、セカンド内野安打よ。抜けてりゃのちのち「クリーンヒット」って言いふらしたんだけどな。次のバッターが倒れて、高校野球が終わった。

 甲子園の土は、母校のマウンドにまいた。「野球よさらば」と思いながら。卒業後は地元の会社に就職するけど、いずれは東京で歌い手になるって決めてたからね。

 半年ぐらいで退社して、何のツテもなく上京。でも、甲子園が僕を助けてくれた。いろんな職に就いたけど、履歴書に「甲子園出場」と書くと、すんなり採用になった。北島のおやじに弟子入りしたときもそう。新宿コマ劇場の楽屋に通ってあいさつし続けたんだ。10日目に話しかけてもらって「甲子園に出ました」って言ったら、「明日から来い」となった。

 74年にデビューしたけど、鳴かず飛ばず。その時期に僕を支えてくれたのも甲子園だったな。「甲子園に出られる強い星の下に生まれたんだ。絶対に何とかなる」。そう思って、死ぬ気で頑張った。

 80年に発売した「みちのくひとり旅」が大ヒット。あれがなかったらと思うとゾッとする。翌年にはNHK紅白歌合戦に初めて出た。1年前の大みそかはキャバレーで歌ってたんだけどさ。初コンサートを大阪でやることになって、甲子園の組み合わせ抽選会をしたフェスティバルホールを希望した。新たな一歩は、思い出の場所から踏み出したかったから。

 このトシになると、大事なことを忘れがちになる。高校野球から学んだ素直さと礼儀正しさがあるから、いまの自分が山本譲二でいられるんだよな。ここに来て、それを思い出したよ。ありがとう、甲子園。=抜粋

 やまもと・じょうじ 歌手。1950年、山口県生まれ。71歳。早鞆高3年の夏に甲子園出場。1年弱の会社員生活を経て、歌手を目指し上京。北島三郎さんに師事。80年発売の「みちのくひとり旅」がミリオンセラーに。