県出身の芸術家と戦争

魚住あかり
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 芸術家や文学者は、どのように戦争の時代を生きたのか。戦争体験を語り継ぐことが年々困難になる中、文化芸術作品の中に戦争を感じ、読み取る人たちがいる。静岡県出身の芸術家たちの作品に残された戦争の記憶をたどった。

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 「避難した土手から家が燃えるのを見た」。静岡市出身の版画家・海野光弘(1939~79)は後年、妻の花告枝(かつえ)さん(81)に話していたという。戦争について多くを語らなかったが、静岡空襲の記憶は強く残っていた。

 陰刻と呼ばれる手法を使い、黒地に山や古民家などの自然の風景を鮮やかに刷り上げた作品で知られる。79年に39歳の若さで亡くなったが、島田市にある海野光弘版画記念館には今でも多くのファンが訪れる。

 光弘は39年、第2次世界大戦が開戦した年に生まれた。小学校入学の前年に静岡空襲を経験。染め物業を営み、安倍川沿いに600坪ほどの住居と工場を構えていた海野家は、同空襲で全焼した。

 「光弘は泣き虫だったから、空襲の時は母親のかっぽう着の裾をずっと握りしめていたみたい」。花告枝さんは話す。同じく安倍川のそばに住んでおり、当時のことを覚えているという。「たくさんの死んだ人をよけながら土手を歩いた。焼夷(しょうい)弾がきらきら光って落ちてきました」

 幼い日の壮絶な体験は、後の作品にどう影響したのか。「後年の作品では、人物の顔がはっきりと描かれていない。戦争による心の影を、そこに反映させているのでは」。島田市博物館学芸員の朝比奈太郎さん(58)は話す。代表的な作品「縁通し」(76年)は、暗い古民家の室内から、外を見つめる構図の作品だ。人物は描かれず、室内のテレビの画面にひっそりと人影が映っている。

 「光弘は人が大好きだったから」と花告枝さん。古民家など古くからの人の営みも、後年の作品は写しだす。戦争の影を抱えながらも、人への温かいまなざしを失わなかった光弘の作品は、今も多くの人に愛されている。

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 藤枝市文学館には、夏になると小さなパネルが展示される。「文学者たちの戦争体験」と題した展示からは、同市出身の作家たちもまた、戦争の渦中にいたことがわかる。

 作家・小川国夫(1927~2008)もその1人だ。27年に藤枝市で生まれ、同市で執筆活動を続けた。自己の内面を徹底的にみつめた作品は根強い人気があり、ファンによって同市に文学碑も建てられた。

 戦争を経験したのは、旧制志太中学校に在学していたころ。勤労奉仕として市内の農家に派遣された後、用宗の小柳造船所で働くことになった。朝5時に起きて造船所に向かい、日が暮れるまで駆逐艇を造る過酷な日々だったという。

 「戦争漬け」の日々を過ごしても、小川が戦争に熱狂することはなかった。新聞の報じる華々しい戦果とは裏腹に、御前崎の方角から爆撃機が毎日のようにやってくる。あこがれの存在だった近所の兄貴分が、特攻で命を散らす。日本の艦上爆撃機が港の上をふらふらと飛行し、海に落ちる様子も目撃した。

 「戦争はみんな負けると思っていた」。藤枝市文学館に勤め、小川と親交のあった澤本行央さん(71)は後年、小川がそう話していたことを覚えている。澤本さんは、連作短編「動員時代」(54年)、爆撃機の墜落を目にして書いた「彗星(すいせい)」(70年)など、戦争体験を元に書かれた作品の名前を次々と挙げる。どれも小川が用宗で感じた暗く、行き詰まった心情が反映されている。

 「小川は戦争反対という気持ちを最後までずっと持っていた」。来年で生誕95年。作品は当時の様子を生々しく伝え続けている。(魚住あかり)