生きる場所求め秘境に入植 樺太引き揚げ者は難民だった

有料会員記事知る戦争

三木一哉
[PR]

 「ここはツヅラ沢といって、戦後の一時期、入植した人たちが住んでいました。今は誰もいません」

 津軽海峡に面した北海道知内町小谷石から福島町岩部までの海岸沿いの景色を楽しむ「矢越クルーズ」。断崖絶壁が続く風景が突然変わり、幅百メートルほどの入り江が現れると、案内人が説明してくれた。

 石だらけのわずかな平地があり、険しい山々から沢が入り江に流れ込んでいる。海岸沿いにも山中にも道はなく、船でしか往来できない。クルーズの発着点の知内町小谷石から約3キロ、福島町岩部から約4キロ。ヒグマがすむ深い山々に隔てられた土地に人が住んでいたのか――。

 ツヅラ沢で少年時代を送った山名連(むらじ)さん(81)に会った。北海道開発局で道路建設にあたったあと、ゼネコン社員を経て設計コンサルタントになり、北海道内の道路やトンネル、橋の設計や建設に携わった。70歳で第二の故郷の福島町に戻った。

 ツヅラ沢に入植し、漁場を開拓したのが父、菊太郎さん(1892~1956)だ。福島町内で回船業を営んでいたが、1919(大正8)年ごろ、日本領だった南樺太(現ロシア・サハリン)へ渡り、森林伐採に従事した。のちに南西部の阿幸(おこう)(現ヤスノモルスコエ)で沿岸の漁業権を買い取り、終戦前はニシン漁や水産物加工の会社「山名漁場」を経営していた。漁期には北海道や東北から季節労働の漁師が集まり、80人ほどが働いていたという。連さんはそこで生まれた。

 45(昭和20)年8月11日、ソ連軍が南樺太へ侵攻した。阿幸では家財道具を積んだ避難者の荷車が続々と南へ向かって通り過ぎた。菊太郎さんは水産関係者の会議で不在だったが、「ここにいたらソ連兵に殺される」とのうわさが広まり、母ハルさん、妹笑子さんと3人で、稚内へ連絡船が通じている南隣の本斗町(現ネベリスク)へ避難した。

 連絡船「能登呂丸」が満員だったため、連さんらは民間の発動機船に乗った。姿を隠すため甲板にむしろを掛けたが、日中、ソ連機に威嚇射撃された。稚内に着く直前、樺太へ戻っていく能登呂丸がソ連機に撃沈されるのを目撃した。「いつか兵隊になって、ソ連をやっつけてやると誓った。私たちの船には白旗がなびいていた。母親たちの腰巻きだった」

 ハルさんの出身地、北海道北…

この記事は有料会員記事です。残り1021文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【10/25まで】スタンダードコース(月額1,980円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら

知る戦争

知る戦争

平和への思いを若い世代へ託そうと、発信を続ける人がいます。原爆や戦争をテーマにした記事を集めた特集ページです。[記事一覧へ]