天狗党と高崎藩 「下仁田戦争」から実相にせまる

角津栄一
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 幕末の動乱期に群馬県下仁田町で勃発した「下仁田戦争」。水戸浪士らによって組織された天狗(てんぐ)党と、幕府から討伐を命じられた高崎藩が刃を交えた史実について、「高崎史志の会」理事の堤克政さん(78)が、史料と現地調査にもとづき実相に迫る「天狗党事件と高崎藩」(上毛新聞社)を出版した。

 堤さんは2005年、群馬県高崎市の歴史と文化継承をめざす「高崎史志の会」を立ち上げ、藩政期を中心に史実に関して講演し、著書も出してきた。

 下仁田戦争、特に高崎藩側からの研究は途上にあるという。今回、幕府や高崎藩、諸藩の文書などから、戦争に至る経過をたどり、時代背景を読み解いた。堤さん自身も、高崎藩家老の家系で、曽祖父が下仁田戦争の戦没者の一人だ。

 京都で池田屋事件が起きた1864(元治元)年、尊王攘夷(じょうい)を掲げて筑波山で挙兵し、京都をめざした天狗党と高崎藩の追討軍が下仁田町で戦った。11月16日朝、約900人を擁した天狗党が、約200人の高崎藩兵を奇襲。高崎藩は敗れた。

 本書は、天狗党をめぐる様々な疑問を解き明かす形でまとめられている。戦争より4年前、水戸浪士が攘夷の旗印のもと、民衆に軍資金を強要しているとの情報が幕府側に届いた。「なぜ、天狗党が関東各地で事件を起こす前に、幕府は制することができなかったのか」

 下仁田戦争にいたる3年間に、幕政を担う老中が目まぐるしく交代。外様や江戸から遠い藩から起用される事例が多かった。堤さんは「ほとんどの老中は在任期間2年未満で、幕府の方針があやふやな状況となっていた」と分析する。

 天狗党の軍事行動がエスカレートし、64年6月、現在の茨城県那珂湊地方に向けて幕府の追討軍が出陣した。高崎藩など11藩が招集された。那珂湊地方に近接しながら声がかからなかった藩がある一方で、なぜ遠く離れた高崎藩が招集されたのか。

 「招集された藩の多くは、藩主が若く在任期間が短いことが共通している。幕閣を務めた関東の主要藩は招集されていない」

 追討軍に敗れた天狗党は京都に向かう途中で、下仁田町で高崎藩と戦陣を開いた。「高崎藩の主力部隊は追討軍に出張していて、下仁田の全軍指揮官に充てる人がいなかった。高崎藩のほかにも追討の幕命を受けながら、出陣しない藩もあった」

 高崎史志の会は、歴史的遺産保存のため高崎歴史博物館の創設をめざす。堤さんは「来場者に、物を見せるだけではなくデジタル技術を使ってその歴史的背景など『裏側』を見せる仕組みが必要です」。歴博実現に向けて展示資料の試作も始めている。(角津栄一)