秀吉の常山城攻め、陣立記した文書見つかる 滋賀・長浜市が発表

松浦和夫
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 羽柴(豊臣)秀吉が中国攻めで、毛利氏勢力の掃討のため備前国児島(こじま)の常山(つねやま)城(岡山県玉野市)を攻める際に記した陣立(じんだて)の文書が見つかった。これまで常山城攻めが実際に行われたか疑問視する見方もあったが、今回の文書でこの戦があらためて裏付けられた。秀吉の戦歴に新たな情報が加わる貴重な発見だという。

 滋賀県長浜市が8月26日発表した。文書は昨年12月、市内の歴史研究家がネットオークション京都府内の所有者から入手。市が、持ち込まれた文書を調査していた。

 秀吉は織田信長の命により、1577年に中国攻めを開始。播磨、但馬などを平定後、82年から備前・備中攻めに本腰を入れた。信長の一代記「信長公記」には、同年3月17日、信長の五男で秀吉の養子となった於次(おつぎ)秀勝の初陣として、秀吉が供をして備前国児島に残っていた「敵城一所」を攻撃する旨、信長に注進があった、と記述されている。

 部隊配置を示す陣立の文書は縦30・4センチ、横46・8センチ。冒頭に「はまて(浜手)の衆」とあり、船を使って瀬戸内の児島を攻めたとみられる。加藤光泰や浅野長吉ら尾張・美濃時代からの家臣や中国攻めの過程で家臣となった播磨衆ら8人の名前とそれぞれ率いた人数が記されていた。総勢は1530人。また、年号はないものの日付は3月17日で、秀吉の花押(かおう)があった。

 信長公記には、この戦の勝敗は書かれていない。しかし、4月4日には秀吉は備前国岡山に到着し、5月7日には備中国高松城の水攻めを始めた。

 長浜市は、常山城攻めなどで児島を制圧し、その後の戦いを優位に進めたとみている。6月2日の本能寺の変の後の中国大返しで毛利氏勢力に追撃させなかった遠因になるのでは、としている。(松浦和夫)