父母は空襲で、孤児仲間は食中毒で死んだ 元教師は過去の沈黙破った

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贄川俊
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 自らの戦争体験を語り始めた人たちがいる。きっかけはさまざまだが、後の世代へ語り継ごうとする思いは変わらない。贄川俊

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 「食べるものを手に入れるには、もらうか、拾うか、盗んで食べるかしかなかった。着ているのは何カ月も同じもの。『野良犬はあっちへ行け、汚い』と、いつも怒鳴られていた」

 7月31日、埼玉県小川町立図書館のホールで約50人を前に、小鹿野町の山田清一郎さん(86)が戦争孤児だった自身の体験を語った。中には、食い入るように見つめる小学生や中学生の姿もあった。そんな山田さんは50年以上、自身の体験を周囲に話せないでいた。

 山田さんは神戸市で生まれ、三宮で花屋をしていた両親と3人で暮らしていたが、1945年3月17日夜の神戸への大空襲で自宅を焼かれ父を失った。6月5日昼の空襲で防空壕(ごう)にいた母も亡くなり、10歳で孤児になった。

 それから2年間、銀行の焼け跡にあった金庫や地下道、公園などをねぐらにして、神戸や東京で同年代の子どもと一緒に過ごした。

 残飯をあさり、食べ物を盗み、飢えをしのぐ日々。同い年の「トシ」は、食中毒で死んだ。一つ年下の「アキラ」は、トマトを盗んで追いかけられている最中に目の前で米兵の四輪駆動車にはねられて死んだ。自身も何度も腹を下したり、高熱を出したりした。

 その後、長野の孤児施設に入り、3年ぶりに小学校へ通った。17歳になる時に中学校を卒業し、東京で書店や酒屋などで働きながら、22歳で定時制高校を出た。夜間大学に進み、秩父地方の公立中学校で教師になったのは27歳の時だった。

 96年に60歳で定年退職するまで、自身の孤児体験について、家族にも話すことはなかった。「戦争孤児だと知られたら、どんな目で見られるかと不安だった」

 山田さんが語るようになったのは、2000年ごろ。きっかけは97年に出版された戦争孤児の証言を集めた「焼け跡の子どもたち」(戦争孤児を記録する会編、クリエイティブ21)だった。特に「語ってくれ、重い時間を」という冒頭の詩に心を打たれた。

 山田さんは「戦争孤児でも話している人がいる。自分が語らなければ、まわりで亡くなった仲間のこともなかったことになってしまう」。勇気を出して少しずつ体験を話し始めると、まわりは受け入れてくれた。むしろ「貴重な経験だ」と講演も頼まれるようになった。教え子からも「山ちゃん、すごい人生だったんだね」と声をかけられた。体験をまとめて本にもした。

 80歳を超えてからも年に数回は講演を続ける。山田さんは言う。「戦争孤児はまわりから人間として扱われなかった。戦争は人の心をゆがめる。伝えられるうちに伝えておきたいんだ」

焼け跡を見た日から消えた1カ月間の記憶

 埼玉県越谷市の吉田貞夫さん(88)は2年ほど前から、手伝っている子ども食堂の集まりなど人前で、1945年3月の東京大空襲で被災した経験を語るようになった。

 吉田さんは当時12歳。今の東京都江戸川区平井に母親ときょうだい3人の5人で住んでいた。3月10日未明に空襲警報が鳴った。自宅の長屋にある6畳の居間の隅に家族で身を寄せていると、天井を突き破って目の間に焼夷(しょうい)弾が落ちた。不発弾だった。

 母親にせかされ、5人で家を…

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