「9・11」で感じた危機感 小説で語り始めた「8・6」の記憶

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 「9・11」と「8・6」。多数の民間人が死傷した米同時多発テロをきっかけに、広島に投下された原爆の被爆体験を小説にして語り始めた女性がいる。「話しても伝わらない」というあきらめの気持ちを変えたのは、戦争への強い危機感だ。あれから20年。その思いは強まっている。

 9月上旬、広島市東区の作家、武谷(たけや)田鶴子さん(92)は自宅で、混迷を深めるアフガニスタン情勢を伝える新聞記事を横目にパソコンに向き合っていた。最新作の執筆のため、毎日午前2時まで机に向かう。

 2001年9月11日。テレビの映像に言葉を失った。世界貿易センタービルに飛行機が突っ込み、音をたてて崩れていた。震えが止まらなかった。土ぼこりの中で泣き叫ぶ子どもの姿が、16歳の自分と重なった。

 学徒動員先の軍需工場から徒歩で移動中に被爆した。爆心地から約1・5キロ。気絶し、目が覚めた時には顔にやけどを負い、全身も赤くただれていた。焼け野原となった広島の街で逃げ惑う自らの姿を、今でも夢に見る。

 生きるだけでつらかった。顔のやけど治療をしてくれた医者からは「鏡を見るな」と言われた。電車では「どうしてあんな顔をしているの?」と子どもから指をさされた。自殺も考えるほど追い詰められた。

 1955年、米国の市民の被爆者支援運動で、やけど痕の皮膚移植手術のために渡米した。米国の助けを借りるのは複雑だったが、ホストファミリーは本当の家族のように優しく接してくれた。二つ年上のジーン・キャンベルさんは姉のように温かく、やけどの痕を見ても驚かず、抱きしめて「あなたは可愛い妹」と言った。おそろいのドレスを着て、パーティーに連れて行った。帰国後は広島まで会いに来てくれ、武谷さんも彼女に会うために何度も渡米した。交流を続ける中で、キャンベルさんの祖父母がアウシュビッツ強制収容所でナチス・ドイツによって虐殺されたことも知った。「憎いのは米国ではなく、戦争だと思うようになりました」

 結婚し、53歳で恋愛やミステリーなどの小説を書き始めた。だが、被爆体験を取り上げることだけはしなかった。「経験した人にしか分からない。それだけ悲惨だったから」

 転機となったのが、72歳のときに起きた「9・11」直後に彼女から届いた手紙だ。

 「戦争に関係のない人たちが…

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核といのちを考える

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