「賢い患者」の「生」への思いと最期 私に課せられた宿題

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それぞれの最終楽章・「一人称」の死へ(4)

僧侶・高橋卓志さん

 約30年前にがんで他界した父は死の直前、激痛に苦しみました。入院して緩和ケアを受けることになり、脊髄(せきずい)に麻酔を打つ治療法を医師に提案されたんです。ただし、投与すれば長くて10日間くらいだ、とも。僕は迷いながらも、正直に父に伝えました。すると「やってもらってくれ!」と即答されました。痛みから解放された父は周りの人にダジャレを言ったり感謝を伝えたりして、約3週間後、自宅で穏やかに息を引き取りました。

 父の決断は、僕にとって衝撃的でした。死を受容していたと思っていた禅僧が、耐えがたい痛みに混乱し、いのちを延ばすより楽になるほう、つまり「死」を選んだのです。そのころの僕はよく病院に入り込み、最期を迎えつつある患者さんたちの話を聴いていました。仏教の教えを説き、死にゆく人に心の安らぎを与えることこそ僧侶の役目だと信じていたんです。父の言動は、そんなものは通用しない現実を僕に突きつけました。

 やはり親しかった全国紙記者の佐藤健さんも、約20年前にがんで逝く直前、鎮痛剤を増やすとそのまま永眠するという医師の言葉に「それを頼む」と即答しています。これらは日本では許されていない安楽死といったい、どこが違うのか。割り切れなさが僕の中に残りました。

 ある時、友人の医者が「今は…

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