傷だらけで、感激の抱擁を受けた ユージン・スミスは「やさしか人」

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奥正光
【MINAMATA ユージン・スミスの伝言】ユージンが見つめた人々の勇気と不屈の魂
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 ユージン・スミスさんの抱擁を受けた。涙が出る程の親愛の情を示され感激でいっぱいだ。彼が沖縄戦のなかで、体のあちこちに傷を受けられた話を聞いて粛然となる。あの優しい青い目の奥に思い込められた、また人間として水俣病患者に寄せられた大きな愛に触れて心豊かになるようだ。

 水俣病の実態を世界に伝えた写真家ユージン・スミスの抱擁を受けたと日記に記したのは、原因企業チッソとの自主交渉の先頭に立ち、「闘士」と呼ばれた患者の故・川本輝夫さん。日付は1972(昭和47)年1月7日。2人が千葉県のチッソ石油化学五井工場で従業員から暴行を受け、傷だらけになった日だった。

 ユージンとはどんな人だったのか。1918年、米国の中西部カンザス州ウィチタで生まれた。小麦商だった父親は世界恐慌で破産し、後に自殺。18歳になる直前の36年、母親あての手紙に、決意をしたためていた。「僕の人生に与えられた役目は、生命の活動、世界の息吹、そのユーモアや悲劇をとらえること……あるがままの生をとらえることだ」

〈水俣病〉チッソ水俣工場が不知火海に流した廃水中のメチル水銀を原因とする公害病中枢神経が侵され、熱さなどの感覚が鈍くなる、見える範囲が狭くなるなどの症状がある。1956年5月1日、水俣保健所に患者の多発が届けられ、公式確認された。

 翌年に大学を中退しニューヨークへ出た後、「ライフ」誌などで活躍。第2次世界大戦の太平洋戦線では、ラバウル、グアム、硫黄島など激戦地を踏んだ。45年5月、沖縄で取材中に日本軍の砲弾の破片を受け重傷。体に破片が残り、後遺症に生涯苦しんだ。

 戦後は長い療養生活の終わりごろに撮った「楽園への歩み」から、「カントリー・ドクター(田舎医者)」や、黒人妊婦を介抱する助産師を描いた「助産婦」などを発表。59年に「世界の十大写真家」に選ばれている。61年には高度成長期日立製作所に招かれ、PR写真を撮影した。

痛み止めとして欠かせなかったウイスキー

 大学生で通訳をしていたアイリーン・美緒子・スミスさん(71)と70年に出会い、ニューヨークの仕事場を訪れた日本人男性から水俣で工場廃水によって多くの被害者が出ていることを知った。71年の来日前、朝日新聞の取材に決意を語っている。

 「水俣の悲惨もまだよくわか…

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水俣病と水俣に生きる人々を撮り、世界に伝えた米国の写真家ユージン・スミス。彼の写真とまなざしは、現代もなお終わらない受難を照らしている。[記事一覧へ]