MINAMATA、18歳の声なき声 ユージン・スミスは涙を流した

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奥正光、奥村智司
【動画】2歳11カ月で水俣病を発症し、言葉を失った田中実子さん。その瞳はユージン・スミスの心をとらえた
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 何かを見ている。人と目が合うが、表情は変わらない。その瞳は、また別の何かに向かう。

 田中実子(じつこ)さんは今年、68歳になった。2歳11カ月で水俣病を発症し、言葉を失った。65年間、食事も排泄(はいせつ)処理も入浴も、自分ではできない。水俣病の原因物質メチル水銀は脳に深刻なダメージを残した。熊本県水俣市の公営住宅で24時間の在宅介護を受けている。

 日中、居間でひざ立ちをしている。ひざ立ちの姿勢で足を少しずつずらし、その場でゆっくりと360度回転する。台所の方を向いた時、決まって前かがみになり、床に手をつく。規則的に繰り返される田中さんの動き。その理由は誰もわからない。

 かつては笑顔になる時があった。1987年に両親が相次ぎ亡くなってから、ほとんど笑わなくなった。「表情も、声も出さない。30年前に一度だけ、涙を流して泣いたことがあった。親が亡くなってよほど悲しかったんだろう。泣いたのはその時だけ」。面倒をみる義兄の下田良雄さん(73)は語る。重たげなまぶたの奥から、田中さんは何かを見ている。

 半世紀前、カメラのファインダー越しに、その瞳を見つめた米国人がいた。写真家ユージン・スミス(1918~78)。70年、ニューヨークの仕事場を訪ねてきた日本人男性から工場排水によって水俣で多くの被害者が出ていると聞き、翌71年から水俣に移り住んだ。水俣病患者を撮った。

 患者家族が原因企業チッソ(東京)の責任を問い、初めて起こした水俣病第1次訴訟(69~73年)のただ中。ユージンは結婚したばかりのアイリーン・美緒子・スミスさん(71)と共に原告家族を訪ね歩いた。その一人が田中さんだった。日本生まれのアイリーンさんは、日本語が話せないユージンの通訳も務めた。

 18歳の田中さんは部屋で座ったまま。その左手に、ユージンは両手を添えた。しばらくして田中さんがほほえんだ瞬間、右手でカメラを持ち、左手で手を握りながら撮影を始めた。

 田中さんの姿はユージンの心をかき乱した。後日、アイリーンさんにこう言って泣いた。「水俣に愛する女性ができた。プレゼントはなににしたらいいか」

 その心情を吐露し、むせび泣く音声が残っている。

 実子ちゃん。私は何度も何度もあなたの写真を撮ってきた。あなたを写真に収めることはまるで、揺れ動く心をとらえるようで、大きな誤りを犯しているのではと恐れている。私たちはあなたを裏切った。理解できないんだ。でもね実子ちゃん、あなたを愛している。

 水俣でユージンの助手をした写真家の石川武志さん(71)は「ユージンは実子さんの声なき声を代弁することで、人間の尊厳が傷つけられた様を表現しようとしていた」と言う。だが、納得のいく田中さんの写真は最後まで撮れなかった。田中さんの話をするときユージンは「判で押したように」涙を流したという。「今の実子さんを見たら、きっとユージンはまた泣くだろう」

 ユージンは72年1月、チッソに補償を求める患者たちと千葉県の関連工場を訪れた際、従業員の暴行を受けた。この時の後遺症で右目は失明寸前になり、治療のため帰米した後、水俣に戻り撮影を続けた。当初数カ月の予定だった水俣滞在は74年まで3年に及んだ。

 75年にアイリーンさんと2人で出した写真集「MINAMATA」の序文に記した。

 私たちが水俣で発見したのは勇気と不屈であった……この本を通じて言葉と写真の小さな声をあげ、世界に警告できればと思う。

脚本を読んだジョニー・デップ

 45年後の2020年。映画…

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水俣病と水俣に生きる人々を撮り、世界に伝えた米国の写真家ユージン・スミス。彼の写真とまなざしは、現代もなお終わらない受難を照らしている。[記事一覧へ]