難攻不落の金山城 その理由を探る

柳沼広幸
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 「難攻不落」とは、この城のことか――。関東平野が始まる北の端、群馬県太田市金山町の広大な丘陵地帯に、戦国時代に築かれた山城、金山城(かなやまじょう)があった。「日本百名城」の一つで、城跡は国の史跡に指定されている。

 越後の上杉、甲斐の武田、相模の北条。歴史に名を残す戦国大名がこの地をほしがり、十数回にわたって攻め寄せた。だが、自然の要害に築かれた金山城は、直接の戦闘ではついに陥落しなかった。

 夏草が生い茂り、緑濃い金山に登った。ランニングや犬を連れて散歩を楽しむ人たちが行き交う。「新田金山城」の幟(のぼり)がはためき、気分を戦国期にいざなう。

 「上杉など名だたる戦国大名が何度も攻めたのはなぜか」。同行した金山城保存会の副会長、宮田毅さん(68)が解説してくれた。

 金山城の南に関東平野が広がり、利根川が流れる。北に渡良瀬川。東山道などが通り、東西と南北の交通の要衝だった。近くには利根川と渡良瀬川の渡河点があった。大軍を動かすには川を歩いて渡れることが重要だ。勢力を伸ばしたい大名には、どうしてもほしい戦略拠点だった。

 難攻不落の理由はいくつかある。金山の北は険しい地形で攻めにくい。山頂の実城(みじょう)(本丸)までには、岩盤を削った堀切などの防御施設がある。実城近くの核心部「大手虎口」は石垣を高く積み、遠近法と段差、カーブで敵を惑わす。

 「アリの子1匹通さない構造。難攻不落の象徴だ」と宮田さん。元市職員として文化財課長などを務め、城の発掘調査などに約20年携わった。大手虎口も石垣の遺構をもとに復元した。「知恵を惜しまず、さまざまな工夫がされている。当時の人たちは生きるか死ぬかをかけて城を造った」

 金山の中腹にはガイダンス施設がある。城の石垣をイメージした斬新な外観の建物は、国立競技場で知られる隈研吾氏が設計した。城の見学者だけでなく、建築を学ぶ学生もよく訪れる。デザインは東京五輪のシンボルマークとなった市松模様のようにも見える。

 中に詳しい説明がある。

 金山城は新田一族の岩松家純が1469(文明元)年に築いた。下克上で横瀬(後に由良(ゆら)に改姓)が実権を握る。有力大名のはざまで外交戦略も駆使し、何度攻められても落城しなかった。だが、北条の策略にはまって城を明け渡すことに。その北条が豊臣秀吉に降伏すると、1590(天正18)年に廃城になった。

 ガイダンス施設では「不落の城」と銘打った御城印を販売している。「落ちない」というのが響くのか、受験生のために買っていく人もいるという。昨年1月に売り出し、約5千枚売れたという。

 実城があった山頂には、新田神社がある。鎌倉幕府を倒した武将、新田義貞がまつられている。地元の有志らが1875(明治8)年に創建した。「初志貫徹」の神社として、運動部の選手らがよく祈願に訪れる。金山はパワースポットとしても注目されている。(柳沼広幸)

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 太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設 金山と金山城の歴史などを解説し、ジオラマによる再現もある。午前9時から午後5時(入館は午後4時30分まで)。月曜休館。入館無料。東武鉄道太田駅から徒歩約50分、タクシー10分。電話は0276・25・1066。