興福寺で南都焼き打ち後の遺構を初確認 東金堂院の門や回廊

岡田匠
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 奈良の世界遺産興福寺の東金堂(とうこんどう)院の発掘調査で、門と回廊の遺構が見つかり、奈良文化財研究所(奈文研)が6日発表した。平安末期の南都焼き打ち後に再建されたものという。焼き打ち後の再建と断定できる遺構が興福寺で見つかったのは初めてで、門と回廊の規模も明らかになった。

 奈文研によると、東金堂院は、主要なお堂の一つで東金堂とその南に立つ五重塔(いずれも国宝)、それらを囲む回廊や門、築地塀からなる。東金堂と五重塔は5回の焼失と再建を繰り返し、南都焼き打ちは3回目の焼失となった。今の東金堂と五重塔は室町時代に再建された6代目。現在、門と回廊はなく、なくなった時期はわかっていない。

 奈文研は7月から、門と回廊があったとみられる東金堂の西正面の約260平方メートルを調べた。その結果、礎石の抜き取り穴などを発見した。門の基壇は南北約10・8メートル、東西約8・0メートル、その上の建物は桁行き約8・8メートル、梁(はり)行き約4・7メートル。切り妻造りの八脚門だったといい、門と東金堂の中心軸がそろっていた。回廊は単廊で、基壇の幅は約6・2メートル、建物の幅は約3・5メートルだった。

 奈文研によると、回廊の基壇の脇から焼き打ち時の焦土を含んだ整地土がみつかり、その中から複数の軒丸瓦や土師器(はじき)の皿が出土した。形や文様から、南都焼き打ちのあった平安末期から鎌倉初頭のものと確認された。この整地土の上に門と回廊の基壇が造られており、再興された時期は南都焼き打ち後と確定できたという。

 再興された門は、興福寺の創建からの縁起を記した平安末期の文献「興福寺流記(るき)」に記された創建時の門とほぼ同じ規模とみられる。奈良時代の創建当初の規模や配置を踏襲して復興したと考えられるという。

 奈文研の目黒新悟研究員は「奈良時代の創建時の規模を守りつつ、再建していることが確認できた。これまでの調査で時期が断言できなかった遺構も、今回の調査成果をふまえ、時期を検討していけることになった」と話す。

 現地説明会は9日午前10時~午後4時。問い合わせは奈文研(0742・30・6736)。(岡田匠)

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 〈南都焼き打ち〉 平安末期の1180年、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が興福寺など奈良の寺社勢力を頼りに平家打倒を呼びかけ、反平家の挙兵が相次いだ。これに対し、平家は平重衡(しげひら)が父・清盛の命で南都に攻め入り、興福寺のほか東大寺も焼け、大仏も焼け落ちた。一連の出来事は平家物語でも描かれている。