イスラム主義勢力タリバンがアフガニスタンで再び権力を握った。同国でかつて武装解除(DDR)活動を担った一人が、紛争地支援の専門家、瀬谷ルミ子さんだ。各地の軍閥を武装解除し、「ミスDDR」とも呼ばれた。だが、あの経験は挫折だったと言う。遠い国の人々の危機を見つめてきたその目に映るものとは。
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――アフガニスタンのカルザイ大統領(当時)から「ミスDDR」と呼ばれたという話が知られています。実話なのですか。
「ええ。ただ、ほんの軽口です。大統領とは多い時期は週3回会っていました。武装解除の進め方について、日本大使と2人で打ち合わせに通っていたのです」
「アフガニスタンには2003年からの2年間、赴任しました。任務は国内各地を支配する軍閥の武装解除です。戦車や大砲、自動小銃といった兵器を差し出させ、戦闘員を除隊させたうえで、市民として生きていけるよう職業訓練をする。それがDDR(武装解除・動員解除・社会復帰を意味する英語の略)です。抵抗する軍閥司令官をどう説得するかを考えるのも私の仕事でした」
――今から20年前、01年9月に米国で9・11テロ事件が起きました。米軍が報復的なアフガニスタン攻撃を行い、当時のタリバン政権を倒したのでしたね。
「政権崩壊後、米国が主導し英独や国連なども参加する形で、新しい政府づくりと国軍づくりが始まりました。国軍ができるのに各地に武装組織がいては都合が悪いという考えから、軍閥を解体しようとしたのです。日本政府と国連が担当しました」
ルワンダの写真を見て気づいた選択肢
「ミスDDR」と呼ばれた瀬谷さんが、紛争地支援の道に進もうと思ったきっかけは。そして現在のアフガニスタンについて、どう思っているのでしょうか。
――瀬谷さんはなぜ紛争地支援の道に進もうと志したのですか。
「高校3年のとき、地元紙に載った写真を見たのがきっかけでした。アフリカのルワンダで起きた大虐殺から難民キャンプに逃れてきた親子が写っていて、3歳ぐらいの子が、コレラで死にかけている母親を泣きながら起こそうとしていた。衝撃を受けました」
「当時の私は、家庭の厳しい…