時事は「現場に駆けつける思い」で詠む 歌人・高野公彦さんが新歌集

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聞き手・佐々波幸子
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 言葉と人生を慈しみ、豊かな表現力で歌壇を牽引(けんいん)してきた歌人の高野公彦さん(79)が第16歌集「水の自画像」(短歌研究社)を出しました。歌の推敲(すいこう)を重ねることでも知られ、「歌ができたことを喜ぶ素朴な作者と、厳しい目を持つ読者が僕の中で対話を繰り返している」と言います。歌誌「コスモス」の編集人を務める高野さんに、コロナ詠をはじめとする時事詠との向き合い方や、歌作りで大事にしてきたこと、半生の歩みを聞きました。

たかの・きみひこ 1941年、愛媛県生まれ。歌誌「コスモス」編集人。朝日歌壇のほか、新潟日報、南日本新聞でも歌壇の選者を務める。97年に「天泣」で若山牧水賞、2001年に「水苑」で迢空賞、詩歌文学館賞。13年に「河骨川」で毎日芸術賞、15年に「流木」で読売文学賞。19年に評論「明月記を読む 定家の歌とともに」で現代短歌大賞を受賞。

 ――昨年春、短歌の総合誌「短歌研究」で読んだ印象的な一首が歌集「水の自画像」に収められていました。《てふてふが一匹東シナ海を渡りきてのち、一大音響》。新型コロナウイルスについて、ずいぶん早い時期に詠んだ歌ですよね。

 短歌のなかで、いわゆる時事詠と呼ばれるジャンルがありますね。作品として良いものができるかどうかは別なんですけれども、何か事件が起こったらすぐ詠む、というのが僕のやり方です。じっくり様子を見る人もいますが、例えば太平洋戦争に対して、50年後には気楽に何でも言えるわけです。一方、すぐに作る場合は、いい加減に作るとピント外れの歌になることもあるわけで、真価が問われます。真剣勝負をするつもりで、いち早く作るという考えでやってきました。湾岸戦争東日本大震災が起きたときも、まとまった数の作品を作って、すぐ短歌の雑誌に出したりしました。この歌も、コロナのニュースが伝えられてから、かなり早い段階で作ったものです。

 ――新型コロナウイルスは当初、どう捉えて良いかわからない部分もあったかと思います。そうした状況で歌を詠むのは、緊張しませんか。

 緊張というよりね、時事詠を作るのは一種、短歌で冒険をするという感じです。失敗するかもしれないけれど、それは恐れない。別の言い方をすると、いち早く現場に駆けつけるような気持ちで歌を詠んできました。

 ――この歌は、本歌取りなんですよね。

 「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡つて行つた」という安西冬衛さんの短い詩があります。それがとっさにひらめいて、武漢で見つかった新型コロナウイルスを蝶々(ちょうちょう)に託しました。韃靼海峡ではなく、東シナ海から渡ってきたと。

 この歌にはもう一つ、「蝶墜ちて大音響の結氷期」という富澤赤黄男(かきお)さんの俳句も重ねています。安西さんの蝶と、富沢さんの蝶を結びつけて、大事件を「大音響」という言葉で表したんです。

 すぐ現場に駆けつけて、できたら本歌取りで歌を作る、ということにチャレンジしてきました。僕の中にある、記憶している詩歌が事件によって引き出されるという感じですね。たとえば湾岸戦争が始まった直後に詠んだ歌〈ミサイルがゆあーんと飛びて一月の砂漠の空のひかりはたわむ〉は、中原中也の詩「サーカス」を本歌取りしたものです。本歌取りについては分からない人もいるだろうけれど、歌の表面的な意味だけでも良い作品になっていればいい、と思っています。

 ――確かに、元になる詩や句を知らなくても、新型コロナウイルスが瞬く間に日本で広がっていった様子が迫力をもって伝わってきます。「コロナ」とも「武漢」とも書かれていないのに。

 それは僕の力でなくてね、安西冬衛さんの力ですね。

 ――コロナ下の日常については、その後もさまざまな形で詠んでいます。《コロナ禍の或る日おもへりにんげんは話し相手が無ければ 海鼠》という歌もありました。どうしてナマコなんですか。

 僕は一人暮らしで、コロナが広がってから娘たちが来訪を控えたこともあって、何もしゃべらない日が多いんです。古事記に、「このもの言わぬやつめ!」と叱られるナマコが出てくるんですけど、そのイメージがありましてね。ふと、ああ、ナマコと同じじゃないかと。古事記の世界が僕に手渡してくれた言葉という感じですね。

 ――《つり革は持ち手の無くて揺れてをりコロナ禍やまぬ令和三年》という歌は光景がパッと目に浮かびます。

 みなが外出を自粛して、電車の中がガランガランだったときの様子を表現したいと思って作った歌ですね。

 ――2004年10月から朝日歌壇の選者を務めていますが、ご自身が短歌を始めたきっかけも、朝日歌壇への投稿だそうですね。日賀志康彦という本名での投稿だったと。

 初代選者の石川啄木から現在の選者に至るまで、朝日歌壇の投稿が短歌の出発点だという選者は僕ひとりだろうと思います。

 僕は愛媛の松山工業高校の機械科を出た後、横浜の日産自動車に入りまして、研究課というところでエンジンの実験をする仕事に従事していたんです。大卒の人たちが中心になって、僕らがそれを手伝っていたのですが、1年くらい勤めて、大会社のなかでこのままこの仕事を続けていくのも寂しいな、と思ったんです。そこで、受験勉強をして東京教育大学(現・筑波大学)に入り、大学生協で石川啄木の歌集に出会いました。まだ若いですから、「砂山の砂に腹這ひ/初恋の/いたみを遠くおもひ出づる日」なんていう歌を読むと、うっとりするわけです。僕も作ってみようと始めるうちに、だれかに見てもらいたくなって。下宿生活で朝日新聞をとっていたんで、朝日歌壇に投稿してみようと。

 ――当時はどんな歌を作っていたのですか。

 その頃、万葉集をよく読んでいて、「けるかも」という言葉を使いたかった。《夏まひる木を挽きつくししんしんと丸のこぎりは回りけるかも》という歌を作って送りました。製材所の風景ですね。丸い円形の回転するノコギリに材木を当てて、シャーって押して切る。故郷でよく見た風景を歌にしたら、幸いにも五島美代子先生がとってくださった。ビギナーズ・ラックで、すっかりうれしくなって、月に2~3首から4~5首くらい、1年半ほどせっせと投稿していました。

 ――最初に朝日歌壇に掲載された歌は、初期の作品を集めた歌集「水木」に収めていますね。

 宮柊二先生の選で入った次の歌なども、同じ歌集に載せています。

 《青春はみづきの下をかよふ風あるいは遠い線路のかがやき》

 短歌がすっかり好きになった頃、歌誌「コスモス」の発行人を務めていた宮先生から、「オデンワ、クダサレタシ」という電報がきまして。誘われて遊びに行くと、東京の大田区マンションにある編集分室に留守番が必要なんで、入ってくれないかと。アルバイト料は出ない代わりに、家賃がタダと言われて、是非やります、と転がり込みました。宮先生とお会いして、22歳でコスモス短歌会に入ったことが短歌の道への本格的な出発でしたね。

 いま、朝日歌壇で選歌をしていて思うのは、歌が好きでどんどん送る人がいますけれども、作れば作るほど良い歌ができるとは限らない。作った歌をじっくり推敲した方が良い結果を生むと思いますね。あんまり少ないのもダメでしょうけど。

 ――1週間に何首ぐらいが適切なのでしょうか。

 2~3首ぐらいが良いんじゃないかと。一晩寝かせて、翌朝見直してみると、「あれ、なんでこんな歌が良いと思ったんだろう」ということがあります。そこで、さらに推敲して良い歌にする機会が生まれる。作ってすぐ出さないのがコツだろうと思います。

 ――最新刊の「水の自画像」に収められた《本当のわれに会ひたく歌を詠み、詠みて本当のわれ見失ふ》も心に残る一首でした。そもそも、歌を詠むってどういうことなんでしょうか。

 もやもやした感情を言葉に移してうまく表現できると、喜びが生まれるわけですね。たくさんの人が歌を詠み続けている理由は、それだと思います。歌を作ってしばらくは、ああ良い歌ができたという快感があるんです。感情を歌に変えたときの喜びが、歌を作る原動力のひとつだと思います。

 そうして作った歌を、僕の中の別の読者、客観的な目を持つ読み手が読み直すと、「これでは大したことない」「平凡な歌だ」といった感想を持つわけです。すると、作者であるもう一方の僕は作り直す。作り直した歌が良い歌だったりすると、最初の方が本当の自分なのか、作り直した方が自分なのか、よく分からない。どちらも自分なわけですけど。そんな気持ちを詠んだのがこの歌です。

 歌を作っては推敲し、中身を変えていく。たまには作った歌そのままで、だいたいこれでいいや、というときもあるんですけど、僕の場合ほとんどは、いったん作った歌を、もうちょっと新鮮な見方を取り入れた方が良いとか、僕の中の客観的な読者と素朴な作者が対話を繰り返しています。

 ――なるほど。高野さんの中にいる、客観的な読者は厳しめな人ですか。

 厳しいです。古典から現代歌…

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