第2回「政党政治」を刺し貫いた東京駅頭の刃 平民宰相・原敬はなぜ死んだ

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構成・岸上渉、阪本輝昭
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原首相の暗殺を報じる大阪朝日新聞の紙面(1921年11月5日付)
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原敬没後100年 慶応大・清水教授と歩く現場①東京駅

 10月下旬のある日、JR東京駅の丸の内南口改札付近。新型コロナ対応の緊急事態宣言が解除されて3週間余りがたち、構内を出張や旅行先に向かうとおぼしき人たちがひっきりなしに行き交う。

 「総理大臣原敬氏は(中略)四日夜東京駅に赴きし所、突如兇漢(きょうかん)の刺すところとなり、まもなく絶命した」

 1921(大正10)年11月5日の大阪朝日新聞朝刊は、現職の首相が東京駅頭で暗殺された大事件を報じている。その現場が、ここだ。

 原敬といえば「平民宰相」「日本で初めて本格的な政党内閣を組織した人物」と歴史の授業で習った人が多いだろう。明治維新以来の藩閥政治から、国民に基盤を置いた政党政治へと時代を動かした人物として記憶している人もまた少なくないはずだ。

 そんな原敬が、なぜこのような非業の死を遂げなければならなかったのか。連載として、原の事績とともにたどる。

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 事件から今月4日でちょうど100年となる。

「開業7年の帝都の玄関口で…」記事の後半にポッドキャストも

群衆が見守り、人通りも多い東京駅で、原敬は刺されました。刺した人物は誰か。犯行の動機は。暗殺から100年後の「現場」東京駅を、原敬の事績に詳しい慶応義塾大の清水唯一朗教授と歩きました。記事の後半では、その様子をポッドキャストで聴けます。

 朝日新聞の創刊5万号企画の取材で過去の紙面をたぐると、原敬の名は政治家としてデビューする前の青年時代から、実に多く登場していることがわかる。

新聞記者から外務省、そして政界へ その挙動は常に紙面に

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原敬

 初出とみられるのは1882(明治15)年4月、大隈重信系の「郵便報知新聞」を飛び出した原たちが、大阪で発刊された政府系の「大東日報」で仕事を始めたとするニュースだ。当時、原はまだ26歳。「朝日」にとってはライバル紙出現というわけだが、「さだめし目覚ましき一大新聞になりましょう」とエールを送っている。ところがわずか半年後の10月には、原が内紛で大東日報を辞め、東京へ帰るという記事が紙面に出る。さらにその翌月には、外務省の御用掛として原が採用されたとするニュースが活字になっている。ここから原の官界での華々しいキャリアが始まることになるが、15年後には官を辞して「大阪毎日新聞」編集総理(のち社長)に転身。3年にわたって新聞経営に辣腕(らつわん)を振るい、今度は本当に「朝日」の強力なライバルとなった。

 その後、政友会の結成に幹部として加わり、政界で重きをなすようになってからは、原の名前を紙面上で見ない日はほとんどない、といえるほどになる。

 それほどホットな人物だった原敬だが、現代の私たちが原について知っていることは意外なほど少ない。そのギャップが、どうしても気になる。

 没後100年の節目を前に、当時の紙面や記事も手掛かりとしつつ、原敬の本当の姿に迫ることはできないか。そう考え、今年9月に「原敬 ~『平民宰相』の虚像と実像~」(中公新書)を著した清水唯一朗・慶応義塾大教授(日本政治外交史)とともに、原敬ゆかりの地を巡る小さな旅に出かけることにした。

「原首相遭難現場」 東京駅に残る銘板は何を語る

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現在のJR東京駅丸の内南口にある「原首相遭難現場」の銘板の前で説明する清水唯一朗・慶応義塾大教授

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 清水さんと待ち合わせたのが、原敬暗殺の地でもあるここ丸の内南口だ。2012年の復元工事によって、戦時中の空襲で焼失したかつてのドーム形屋根が再現され、丸の内駅舎は1914(大正3)年の開業当初に近い姿を取り戻した。レリーフに彩られた八角形の屋根は、帝都東京の玄関口として壮麗さを誇った事件当時の様子をリアルに感じさせるものがある。

 正面エントランスから入って…

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