第3回憤然と議場をにらむ原敬 写真が語る「平民宰相」の理想と苦渋

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構成・岸上渉、阪本輝昭
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第44回帝国議会の貴族院議長席。大臣席には原敬首相、内田康哉外相がいる=1921年1月
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原敬没後100年 慶応大・清水教授と歩く現場②国会議事堂編

 あれ、原敬ってこんな顔だっけ……。

 思わず手元の写真を二度見してしまった。朝日新聞社に所蔵されている膨大な写真の中から見つけた1枚の写真。1921(大正10)年1月、第44回帝国議会の貴族院本会議で撮影されたものだ。

 演壇に立つのは和服姿の加藤高明。政友会内閣に対抗する野党「憲政会」のリーダーだった。鋭い眼光で議場に向けて何かを語りかけている。演壇上には水の入った水差しがあるだけ。原稿なしの「ガチ」論戦を挑んでいるといった風情だ。

 一方、これを聴く大臣席。洋服姿の首相・原敬は座席に反り返るような姿勢で座り、首をかしげて傲然(ごうぜん)ともみえる態度で議場を見渡している。教科書でみる穏やかな表情とはだいぶ違う。議場のとげとげしい空気感が伝わってくるようだ。暗殺事件は、この約9カ月後に起こる。

荒れる議会にスキャンダル…原は「辞め時を考え始めていた」

 このころ、原はどんな状況にあったのか。日本政治外交史の専門家で、「原敬 ~『平民宰相』の虚像と実像~」(中公新書)の著者である清水唯一朗・慶応義塾大教授が解説を加えてくれた。

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第44帝国議会で、ぶぜんとした表情で大臣席に座る原敬首相、左は内田康哉外相=1921年1月

 「前年の解散総選挙で(与党の)立憲政友会は大勝し、憲政会をはじめとする野党は議席を減らしました。原は辞め時を考え始めていましたが、やるならば主義を貫くとして積極予算を編成して臨み、懸案であった社会政策にも踏み出します」

 そうだとしたら、原の、この険しい目つきはどうしたことだろう。清水さんはこういう。「積極政策に対して手詰まりとなった野党は、この議会で実に13もの不信任案や反対決議で対抗しました。議場は荒れ、与野党のスキャンダルが飛び交いました。議会政治の権威は凋落(ちょうらく)します。原はそうした野党の姿勢に強い不満を持っていたんです」

桂太郎西園寺公望…原が渡り合った政治家たち 記事の後半にポッドキャストも

平民宰相として喝采を浴び、強力なリーダーシップで政友会内閣を率いていた原敬が東京駅で突然の凶刃に倒れた悲劇から100年。原敬研究で知られる慶応大教授の清水さんと一緒にゆかりの地を巡り、事績をたどる小さな旅を続ける。

 「父の議論好きは有名である。(中略)反対党の小わっぱ議員がつまらぬ問題でねちねちとからんでくれば、相手きらわず数倍のねちっこさで応戦する。こういう調子だったから(中略)相手の恨みを買うような羽目になったともいわれる」と、嗣子で作家の原奎一郎氏は回顧録「ふだん着の原敬」に書き記している。「平民宰相」の響きから想像されるイメージとはちょっと異なる、「口撃」をもいとわない気性の激しさとプライドの高さがこの写真からも垣間見えるようだ。

     ◇

 そもそも政党政治とは、藩閥政治に対抗する概念として成長した。一握りの藩閥政治家が権力を独占し、仲間内で政権をたらい回しにする体制から、広く国民各層の意見を代表する政党が政治を国民のために正しくコントロールする体制に移行することを理想とした。原のめざしたところもそうだっただろう。では、実際にはどうであったのか。

 「実は『政党内閣』を実現させたのは原が初めてではないのです。よくある勘違いなんです」

 原首相暗殺現場の東京駅前で、清水さんはそう語り起こした。

 歴史をひもとけば、原が内閣を組織する1918(大正7)年までに、政党内閣や、準政党内閣といえる政権が次々に誕生しては、そして短期間で消えている。

 それらの政権の失敗から教訓を学び、経験と成果をしたたかに吸収したがゆえに原は「初めての本格的政党内閣」を打ち立て、激しい政治的対立の渦中に身をおきつつも、暗殺まで3年余りの長期政権をたもつことができた。それが、原以前の政党内閣とは全く違うところだと清水さんはいう。

 実は、その政治的技術の高さこそが原の最大の持ち味なのだが、世間一般にはなかなかストレートに伝わりにくいところでもあった。外から見える部分だけで判断される、それは当時も今も変わらないのかも知れない。

政党政治の産声、隈板内閣の失敗に原が注いだ冷静な目

 明治憲法下では、維新の元勲たちを中心とする「元老」たちが天皇に総理大臣候補を推挙し、その推薦に基づいて天皇が首相を指名していた(大命降下)。

 ゆえに首相は主に薩長藩閥出身者で、政界・官界の有力者を集めて内閣をつくり、議会で多数を占める政党と協議・調整の上、議案を成立させていた。

 初めての政党内閣の誕生は原内閣からさかのぼること20年、1898(明治31)年のことだ。だが、この記念すべき政権奪取は、政党側にとってまことにほろ苦いデビュー戦となってしまった。

 自由民権運動の担い手だった…

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