堀川の再生に尽力19年 九地整が表彰

吉田啓
[PR]

 遠賀川から洞海湾までをつなぐ全長12・1キロ。約200年前に開通し、かつては「宝川」と呼ばれた運河・堀川の水の清さを取り戻そうと活動を続ける市民グループ「堀川再生の会・五平太」の会長を務める中村恭子さん(77)=北九州八幡西区=が、長年の功績を評価されて九州地方整備局の功労表彰を受けた。

 「気がついたら19年続いていました」。福岡県水巻町に立つ河守神社。その前を流れる堀川の水面を見つめながら、中村さんは話した。北九州市立の「こどもと母のとしょかん」の館長だった中村さんは20年ほど前、知人に誘われて堀川の再生を考えるワークショップに参加した。

 堀川の近くの東筑高校を卒業し、自宅も数百メートルの場所にあったが、名前を聞いただけではどの水路のことかピンと来なかった。場所を教えられて思い出した。高校生の頃、ゴミがたくさん浮かび、汚れていたので近寄らないようにしていた水路のことだった。

 ワークショップが開かれた当時も悪臭がして、近くの住民は「ふたをして欲しい」と要望していた。現場を訪ねると水は濁り、ヘドロがたまっていた。「これはひどい。誰も何もせんのなら、自分たちできれいにしよう」

 知り合い3人に声を掛けて、週1回の清掃を始めた。最初のうちは水路に入り3歩足を進めると、ヘドロに足が沈み込んで動けなくなった。それでも、根気強く活動を続けるうちに仲間が増えていった。水は透明さを取り戻し、悪臭もしなくなった。「近くに住む人たちが『きれいになった』と喜んでくれて、やめられなくなった」

 5、6年するとハヤが泳ぎ始めた。子どもたちを集めた釣り大会や、「夢の堀川」をテーマに描いてもらった絵の展覧会を開いた。

 活動の合間に運河の由来も調べた。遠賀川の治水や流域の灌漑(かんがい)のため、1621年に当時の藩主、黒田長政のもと開削が始まったこと。硬い岩盤に妨げられるなどして、完成に183年を要したこと。

 開通すると流域の人々が農業用水や飲み水などに用いて「宝川」と呼び親しんでいたことや、底が平らで「川ひらた」と呼ばれた小舟が連なって、筑豊の石炭を若松まで運んでいたこと。その歴史にも魅せられた。

 小学校に赴いて堀川のことを子どもたちに伝えたり、大人向けの講演会に呼ばれたり。「1年のうち360日は堀川のために何かしているようになった」

 すっかり堀川の顔となった中村さんには二つの夢がある。いまは途切れている遠賀川から堀川への水流を復活させ、観光用に川ひらたを浮かべて訪れた人々に楽しんでもらうこと。そして、堀川のことを伝えてきた子どもたちが成長して、活動を継いでくれることだ。

 今年、開削開始から400年を迎えた堀川が、いつまでも住民に愛される水路であって欲しいと強く願っている。(吉田啓)