第4回「大正でもくらしぃ」が議会を囲む 民衆の熱狂と、冷めた原敬と

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構成・岸上渉、阪本輝昭
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「大正政変」のさなか、第3次桂太郎内閣の打倒を叫んで帝国議会議事堂を取り囲んだ民衆の様子を報じる東京朝日新聞の紙面(1913年2月6日付)
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原敬暗殺100年 慶応大・清水教授と歩く現場③国家議事堂編

 「そう、旧帝国議会議事堂はこのあたりにあったんですよ。日本の議会政治の出発点であり記念碑的な場所として、もっと知られていいはずなんですがねえ……」

 東京・霞が関経済産業省前を通り過ぎながら、慶応義塾大の清水唯一朗教授(日本政治外交史)はぼそっとつぶやいた。「原敬~『平民宰相』の虚像と実像」(中公新書)の著者である清水さんとともに原ゆかりの地を歩くこの連載も3回目だ。

 ここにあった旧議事堂が、憤激した群衆によって取り囲まれたのは1913(大正2)年2月のことだ。立憲政友会を率いる公家出身の西園寺公望内閣(第2次)が2個師団増設を要求する陸軍の無理押しによって瓦解(がかい)。続く長州閥・陸軍出身の桂太郎内閣(第3次)は藩閥や軍の横暴に対する世論の批判をまともに食らうことになった。

 吹き上がる民衆の怒りを切り取った1枚の紙焼き写真が、朝日新聞社に残っている。撮影は同年2月5日、場所は旧帝国議会議事堂(第2次仮議事堂)の門前だ。

大正政変のさなか「原敬の存在感は増していった」 記事の後半にポッドキャストも

平民宰相として喝采を浴び、強力なリーダーシップで政友会内閣を率いていた原敬が東京駅で突然の凶刃に倒れた悲劇から100年。朝日新聞「創刊5万号」の記念企画として、原敬研究で知られる慶応大教授の清水さんと一緒にゆかりの地を巡り、事績をたどる小さな旅を続ける。

 議会の門前に押し寄せる群衆。制服の警察官が人垣をつくり、門内への流入を必死に押しとどめている。2月6日付の東京朝日新聞に「熱憤せる群集」のキャプションで掲載されている。

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「大正政変」のさなか、帝国議会議事堂を取り囲んだ民衆。当時の紙面には「熱憤せる群集」とのキャプションがついている=1913年2月5日

 この日、衆議院では政友会の尾崎行雄が「玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代え……」と桂を痛撃する有名な演説を打つ。いわゆる「大正政変」、第1次護憲運動のクライマックスとなる有名な一場面だ。

 専横を振るう藩閥勢力の筆頭格・桂に国民の怒りがたたきつけられ、大正デモクラシーの幕が開いた出来事――とだけ、教科書などを通じて記憶している人も少なくないだろう。私たちもそうだった。

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 「なぜ、議会を取り囲みますか? そこが『自分たちの要求を届ける先』になったからですよ」

 清水さんはそういって、日露戦争講和条約への不満から起きた暴動「日比谷焼き打ち事件」(1905年)との差異を指摘する。民衆が押し寄せたのは内務大臣官邸や御用新聞と目された国民新聞社などだった。政治への怒りは役所――政府に対して実力でぶつけるものであり、議会に届けるものではなかった。それは一揆の延長であり、社会はまだ封建時代を引きずっていた。

 当時は第1次桂太郎内閣。それから8年あまりがたち、怒れる民衆の向かう先は議会へと転じた。つまり、この間にそれだけの意識変化が国民の間に生じていたことになる。政治における議会(政党)の比重が、格段に重くなったということだ。

 変化といえば、これほど大きな変化もない。そして、それを培ったのが、桂と西園寺が協調し、交互に政権を担当する「桂園時代」だったことを見逃していないか。あるいは軽んじているのではないか……。

 そんな見方のうえに立って、清水さんは「桂は単なる、藩閥の利害を代弁するだけの視野の狭い首相ではなかった」と位置付ける。

 伊藤博文の後継者を自任し、政党には政党、民意には民意で対抗する必要をわかっていた桂は、大正政変のさなかに寄り合い所帯の新党「立憲同志会」を立ち上げた。だが、いかにも時合いが悪く、世論をバックにつけた政友会の勢いをはね返す力はもてなかった。政変の渦中に桂は総辞職し、ほどなくして亡くなるが、桂の「同志会」はのちのち、戦前における2大政党政治の大きな潮流につながっていく。

 桂を語るとき、清水さんの口調はちょっと切ない。「業績や実力に比べて、一般からの人気が低い」かなしさを、桂の姿からもくみ取るからだろうか。

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国会議事堂近くの憲政記念館で語る清水唯一朗教授(左)

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 そして、政党政治家・原もまた、この「桂園時代」にはぐくまれた人材だった。同時に、砂地に水を含ませるように、政党の影響力を政府に染み渡らせていった。

 「原は何かを一から作ったり、抜本的な改革を成し遂げたりということはあまりないんです。彼が手腕を発揮したのは、既存の制度を前提とした手直しであり、目の前の課題を一つひとつ解決することでした」(清水さん)

 その手腕を原が磨けたのは「非政党内閣」の制約のもと、政友会幹部や内務大臣などとして政府・政党間の意見調整や、政策実行を担う政治経験を積めたためだ。

 まずは政友会の議員たちから頼られた。「政策に通じていて、桂とやりとりができて、選挙に際して政友会の実績をアピールできる存在は原しかいなかった。そこに存在価値がでてくるわけですね」と清水さんはいう。

 加えて、政友会の総裁が公家出身の西園寺だったことも原の発言力を強めた。「西園寺はあくまでも公家。党大会には出席しないし、都合が悪ければ病気と称して屋敷にこもる。それは公家の政治的技術でもあるのですが、ともかくこんな調子なので実質的に党をまとめる人が必要になります。政策にも実務にも通じた原が、党と西園寺をつなぐキーパーソンとして党内を掌握するのに時間はかからなかった」

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 しかし、大正政変は、政友会にとってはこれ以上ないほどの追い風となったものの、原にとっては思わぬ挫折を味わわせる展開となった。

 議会も世論も敵に回って八方ふさがりとなった桂は、若き大正天皇を頼る。天皇は政友会総裁の西園寺に事態の収拾を命じた。桂にとっては最後の一手である。

 元老である西園寺は、天皇の命には従わざるを得ない。しかし、党内では、桂攻撃の演説で名をはせ、民衆から「憲政の神様」扱いされるまでになった尾崎ら倒閣派がボルテージを上げている。

 党分裂の危機。原は、勅語に…

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