信玄のろしリレー、初めてつながる 生誕500年、伊那谷から甲府へ

松下和彦
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 戦国時代武田信玄(1521~73)の支配下だった現在の南信州。ここから始まった「武田信玄狼煙(のろし)リレー」が、14回目の今年、初めて武田氏の本拠・甲府市までつながった。狼煙の再現を通じて人や地域を結ぶ活動が、信玄生誕500年に沸く山梨の人々も動かした。

 10月30日午前11時、愛知県境の杣路(そまじ)峠(長野県根羽村)で狼煙が上がった。それを確認した地点から次々に狼煙がリレーされ、伊那谷を北上、諏訪地方を経て山梨県内へ。午後1時すぎ、甲府市の武田神社(躑躅〈つつじ〉ケ崎館跡)で完結した狼煙は、27市町村66カ所、約300キロを駆けた。

 「いやあ感動です。信玄が築いた伊那谷と甲斐(かい)国のつながりが生きている」と郷土史家の原董(ただす)さん(83)。長野県下條村から甲府に招かれ、甲冑(かっちゅう)姿の子どもたちが勝ちどきを上げるのを見守った。狼煙リレーの「生みの親」ならではの感慨があった。

 長野県下伊那地方事務所(現・南信州地域振興局)の所長の依頼で、信玄と伊那谷について講義したのが14年前。その資料が市町村などに配られると、「信玄の狼煙」に共鳴した飯田・下伊那地域の公民館長が集まり、「上げまいか(上げようよ)」。とんとん拍子で再現が決まった。

 2008年の第1回は約25カ所をリレー。狼煙を上げる地点を決めるにあたり原さんが驚いたのは、各地の山城や砦(とりで)の跡など、住民が信玄時代の「狼煙場」を知っていたことだった。その後、リレーは上伊那、諏訪へ。そして今回、独自に4回のリレーをしていた山梨へとつながった。

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 古文書によると、信濃の南端、杣路峠から甲斐の躑躅ケ崎館まで、狼煙は「一時(いっとき、2時間)余」で伝わったとされる。杣路峠からは三河(愛知県東部)、遠江(静岡県西部)、美濃(岐阜県)の三国を見渡せる。信玄は伊那谷を「天下」をめざす上での軍事拠点と位置づけ、迅速に情報を伝達できる狼煙を活用したという。

 原さんは信玄の「思想」に注目する。当時の伊那谷は、南北朝時代に天竜川を挟んで東は南朝方、西は北朝方に分かれて争った豪族が分立していた。信玄は手中に収めた伊那谷を一つにまとめるためにも狼煙を活用したという。「人と人、地域と地域をつなぎ、それによって大事な地域を発展させようとしたのです」

 「甲斐の虎」と恐れられた信玄は、武将であると同時に「学者であり政治家でもあった」と原さん。軍旗に記された「風林火山」しかり、「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇(あだ)は敵なり」の言葉しかり。貨幣制度や治山治水事業は、徳川の世のモデルになったという。

 狼煙リレーは来年も甲府までつながるのか。「もちろんです」と原さん。各地の公民館や住民の協力に感謝し、「参加する子どもたちが何を感じ、何を学ぶかも大事」とする。「平成の時代に薄れていった人と人との絆が、結び直されるような令和になればいいですね」(松下和彦)

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 武田信玄は、三方ケ原の戦いで徳川家康織田信長連合軍に勝利するなど、遠江、三河に侵攻したが、突如動きを止める。持病が悪化し、撤退途上の「信濃国駒場」で亡くなったとされる。最期の地は、現在の長野県阿智村駒場など諸説あるが、原さんは「浪合」(現・阿智村浪合)だとする。「当時は浪合から平谷(現・平谷村)にかけてが(馬などの軍備拠点である)駒場だった」。遺品とされる武具などは、阿智村の長岳寺や下條村の松源寺が所蔵している。