「お荷物」球団を劇的に変えた古葉竹識元監督 契約金は一戸建てに

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巌本新太郎

広島東洋カープの元監督・古葉竹識さん

 2008年夏、このシーズン限りで役目を終える広島市民球場の思い出などを伺う取材を終え、写真撮影を頼んだ。今月12日に85歳で亡くなった古葉竹識(こばたけし)さんは、日差しや背景などを自分で考えて「ここがいいかな、こんな具合がいいかな」と、何度もレンズの前に立ってくれた。情に厚く、律義。背筋がスッと伸びた姿は修羅場をくぐってきた人らしく、背丈以上に大きく見えた。

 セ・リーグで長い間、“お荷物”とされた弱小球団、広島東洋カープを劇的に変えた人だ。1975年5月にルーツ監督が突然退任し、39歳でコーチから監督に昇格。いきなりセ・リーグ優勝を飾った。広島市民球場での優勝ペナント授与式で「本当に優勝したんですね」とファンに語りかけた。カープは市民にとって、戦後復興を支えたよりどころの一つだった。

 座右の銘は「耐えて勝つ」。選手に厳しい練習を課し、甘えや逃げは許さなかった。79年、33試合連続安打のプロ野球記録を作った高橋慶彦さんは「おやじは怖かった。でもアメとむちの使い分けがうまく、時々心にしみる言葉をかけてくれた。それで自然と厳しい練習にも耐えられたのかなと思う」。

 厳しいだけではなく、衣笠祥雄さんら中軸打者も果敢に走らせたり、高橋さんらをスイッチヒッターに育てたりと、将来のチーム作りを見すえた先見性があった。後を受けて就任1年目でリーグ優勝した阿南準郎元監督は「僕なんて何もしてないよ。古葉監督が足場を固めてくれたから」と顧みる。

 「耐」の字を人生の支えにしたのは、境遇も関係している。済々黌高(熊本)時代、鉄工所経営の父親が病没してから家計は困窮を極めた。野球の才能を見込まれて専大に進学したが、学費を払えずに中退。野球を続けながら家を支えたいと社会人の強豪、日鉄二瀬(福岡)に入った。広島入団時の契約金200万円を、親兄弟のための一戸建ての資金にと手渡した。

 野球人生の転機は63年だろ…

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