福岡国際マラソンは「永遠に特別」 大会4連覇の韋駄天が振り返る
国内外の名ランナーが集い、競った福岡国際マラソン選手権大会は来月5日に第75回を迎える。かつて「世界一」を決めるレースとして認知されていた大会は、一人の米国人選手の活躍でいっそう注目を集めることになった。フランク・ショーター。大会4連覇は今も燦然(さんぜん)と輝く記録だ。
フランク・ショーターは1971年の福岡国際マラソンに出場するため、初めて日本にやってきた。長髪に口ひげ、ヘアバンドといういでたちでさっそうと走った。その姿から「韋駄天(いだてん)ショーター」と呼ばれた。
あれから50年。
今月上旬、米東部マサチューセッツ州の港町ファルマスの自宅にショーターをたずねた。先月31日で74歳になったばかり。少し前かがみの姿勢で、足元を気にしながら歩いていた。腰を3回手術したという。その姿に、時の流れを感じた。
それが、福岡国際の思い出を聞き始めたとたん、生き生きとした表情に変わった。「福岡国際は、永遠にわたしの心の中で特別な場所を占めるでしょう」。記憶は鮮明で、話が止まらなかった。
マラソンのデビューは71年の全米選手権。同じ年にコロンビアであったパンアメリカ大会を制したことがきっかけで、福岡から招待状が届いた。
「福岡には世界のすべてのトップ選手がいた。当時、五輪以外でこんなマラソンはなかった。本当の国際的なマラソンはこういうものだと感じた。『福岡の次にもっと大事なレースがあるから、全力を出さなかったんだ』とか、そんな弁解ができないほど最高の大会でした」
初優勝した71年は、前年大会を世界歴代3位の記録で制した宇佐美彰朗(桜門陸友会)が優勝候補の筆頭だった。最初の5キロを14分40秒台で飛び出す宇佐美に、食いついた。
「前日までにコースを見て、(博多湾に突き出た)海の中道で折り返した直後が勝負だと思った。予定通りにそこでテイクオフした。戦略がうまくいった」
北西の風が折り返しで向かい風から追い風に変わることを利した。トップに躍り出て平和台陸上競技場にフィニッシュするまでの沿道の応援、歓声に驚いた。
「まったく途切れずに旗を振って、拍手して、大声で応援してくれる。こんなのは初めての経験だった。テレビでマラソンを全国中継するなんてことも他の国ではあり得なかった」
レース外では、日本の“おもてなしの心”に触れた。当時、「名物通訳」だった日本陸連元国際部長の渋谷鋭市(故人)を今も覚えている。抜群の語学力だけでなく「観光したい」といった外国選手の要望を事細かにかなえてくれた。
福岡国際を制した自信をひっさげ、翌72年のミュンヘン五輪で金メダルをつかんだ。福岡国際には72~74年にも出場し、すべて頂点に立った。
前回王者として大会に臨むたび、感じたことがある。
「福岡国際という大会は、前年優勝者を特別扱いはしない。外国招待選手の一人として同列に扱う。沿道の観衆もそう。日本選手か外国選手かに関係なく声援を送ってくれた」
高まる自分の名声とは関係なく、一人のランナーとして自分を迎え入れてくれる大会が、心地よかった。
75年大会は、翌年に控えるモントリオール五輪に集中するため出場を見送った。「『あまり欲張りになるな』という気持ちもあった。4連覇もすれば十分だろうと」
その後は故障に苦しみ、再び福岡の地を駆けることはなかった。
ショーターにとって思い出深い大会は、今年で幕を閉じる。
「もちろん悲しい。だが、驚きはしなかった。そうなるのではと予想もしていた。いまは規模の大きな市民マラソンでないとスポンサーの信用を得ることは難しい。時代は変わる」
さばさばとした言葉とは裏腹に、寂しげな顔だった。=敬称略(酒瀬川亮介)
Frank Shorter 1947年ドイツ・ミュンヘン生まれ。エール大医学部卒業後、フロリダ大法学部在学中の71年に福岡国際で初優勝し、74年まで4連覇。72年ミュンヘン五輪金メダル、76年モントリオール五輪銀メダル。自らの名前をブランド化したランニング用品の会社を設立するなどビジネスでも活躍した。
朝日新聞は、福岡国際マラソン選手権大会の歴史を振り返るオンラインイベント「記者サロン さらば福岡国際マラソン 思い出のレースを語り合おう」を23日午後7時から開催する。
この大会で4度の優勝を誇る瀬古利彦さん、中継するテレビ朝日のアナウンサー森下桂吉さんを招いて語り合う。詳細や申し込みは特設サイト(https://ciy.digital.asahi.com/ciy/11006012)から。