第69回【新聞と戦争・アーカイブ】イベントは過熱する:1

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【2007年6月5日夕刊3面】

 朝日新聞社の企画したイベントは、花形の「航空事業」だけではなかった。

 「単に新聞を発行して居るだけでなく、広い意味の社会教化として種々の催しを為(な)し公共の利益を図ること」

 そんな時代が来ていると、村山龍平社長は1926年の朝日会館竣工(しゅんこう)記念講演会で語った。朝日の部数は100万部を超え、大衆文化が広がり、ラジオ放送も前年に始まっていた。

 翌27年の1年間を見ただけでも、朝日関係の催しは目白押しだ。「ベートヴエン百年祭記念音楽会」「ニュートン二百年祭記念講演と映画の夕(ゆうべ)」「新ロシヤ美術展」

 甲子園の「全国中等学校優勝野球大会」ではこの年、ラジオの実況中継が始まった。

 主催事業は販売拡張につながり、ニュース不足の時には「干天の慈雨」ともなる。

 「自動車双六(すごろく)競走」は28年夏。「清新な読物(よみもの)と写真とを読者に提供する」とうたい、3班にわかれた朝日の記者が盛岡、青森、新潟から車で東京をめざした。各コースは30区間。毎日振るサイの目の数だけ、花巻、水沢と、各まちを進む。

 サイの目が「1」の場合だけは、1区間を進んで「その市町村における高齢者一名を訪問し更に一区間前進するを得」といったルールだ。

 イベント自体に牧歌的な楽しさがあった。

 雲行きが変わるのは、31年の満州事変からだ。

 大阪の文化の一拠点だった朝日会館では、「満州事変一周年記念展覧会」が開催される。

 日中戦争が勃発(ぼっぱつ)した翌年の38年には「支那事変聖戦博覧会」を阪急西宮球場一帯で開いた。戦争のパノラマや戦利品を展示する会場には、145万人が入場した。経費を差し引いた15万円余は、朝日提唱の「軍用機献納義金」に寄託した。

 ライバルの毎日新聞社(東京日日と大阪毎日)も「満州在留軍官民の慰問団派遣」や「進軍の歌」募集を企画した(『毎日新聞百年史』)。

 新聞社同士が競い、国民の関心と相乗し、イベントは戦時色を強めながら過熱していく。

 39年1月、朝日は「戦車大展覧会」を靖国神社で、次いで名古屋や関西でも開いた。

 4月には「大東亜建設博覧会」を阪急西宮球場一帯で開く。開催の意義については「東亜の現勢を正確に認識」「不抜の精神を振起」などと解説。「武漢攻略大パノラマ」や当時の満州、蒙古(もうこ)の生活、生きたラクダも見せた(「大東亜建設博覧会画報」など)。

 大阪朝日はこのとき、小学生から感想文を募集している。武勲を立てて戦死した大尉の遺品に感動したという小学校6年生は、こう書いた。

 「愛国に燃ゆる大尉の心が自分にも湧(わ)き出(い)づるのをおぼえました」

 (敬称略)

連載新聞と戦争アーカイブ(全107回)

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