明朝体と原稿用紙、起源は京都の禅寺に 洪水、飢饉…遠回りしても

小西良昭
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 書籍や文書でなじみの深い「明朝体」や、学校の作文などで使用される原稿用紙の起源は、京都府宇治市五ケ庄の禅寺にあった――。元になったとされる江戸時代のお経の版木を見られる催しが23~28日、黄檗(おうばく)宗の宝蔵院と本山・萬福寺(まんぷくじ)である。

 明朝体のルーツは、宝蔵院所蔵の「鉄眼(てつげん)版一切経(いっさいきょう)版木」と伝えられる。その数はおよそ6万枚。うち4万8275枚が国の重要文化財に指定されている。一切経とは仏教経典の一切を集めたもので、三蔵法師らが中国語に訳した漢文だ。

 中国から渡り、萬福寺を開いた隠元禅師(1592~1673)が、日本にも一切経の版木がほしいと考えていた鉄眼道光(1630~82)の熱意を知り、持っていた一切経6956巻を授けた。鉄眼は全国行脚を繰り返して現在の価値で数百億円の出版費を集め、1681(天和〈てんな〉元)年に版木を完成させた。

 書体の由来は隠元に授かった底本が中国・明の時代のものだったためという。主流だった写経に代わり、木版で大量印刷できるようになった。各宗派に経典が届けられ、明朝体も広まった。

版木は400字詰め原稿用紙2枚分

 版木は縦26センチ、横82センチ、厚さ約2センチ。3センチの縁がつく。奈良・吉野のヤマザクラの板の両面にそれぞれ、20字×10行のお経が4ページ分(800字)彫られている。400字詰め原稿用紙の2枚分にあたり、規格の元になったとされる。

 宝蔵院の盛井幸道(こうどう)住職(72)=滋賀県東近江市=によると、資金集めのさなかに近畿で洪水や飢饉(ききん)が起き、鉄眼は集めた浄財を全て救援に回したという。「2度遠回りしても、17年かけて初志を貫徹した。鉄眼禅師の精神力や人柄を伝えたい」と話す。

 宝蔵院は隠元から寺地を受けた鉄眼が印刷所として建立。版木の一部は、340年後の今も、貝葉(ばいよう)書院(京都市中京区)の職人が手で刷る。収蔵庫は電話予約制で見学できる(0774・31・8026、拝観料300円)。寺では、版木の収納棚を新調するなど文化財保護のための資金を集める「鉄眼プロジェクト」(www.hozoin.net)も実施中だ。

 23~28日の催しでは、版木の見学ツアーや萬福寺で黄檗文化の展示がある。専門家の講演(23、28日)や、明朝体のレタリング体験(27日)も。前売り1800円、当日2千円(ともに拝観料を含む)。お茶の京都DMO(https://ochanokyoto.jp別ウインドウで開きます、電話0774・25・3239)へ。(小西良昭)

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