第1回「ヒロシマの顔」坪井直さんの1945年8月6日 心を縛った光景

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武田肇
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 76年前、米軍が広島に投下した原爆で被爆し、国内外に核兵器の被害の実像を伝えた坪井直(すなお)さんが10月24日、96歳で亡くなった。被爆者の全国組織、日本原水爆被害者団体協議会日本被団協)代表委員と広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)理事長を務め、「ヒロシマの顔」というべき存在だった。

 「不撓(ふとう)不屈 ネバーギブアップ」。11月14日、広島市内の坪井さんの自宅を訪ねると、正面を向き腕組みした遺影の横には、どんな苦労や困難にもくじけないという意志を記した色紙と、2016年5月に平和記念公園で米国のオバマ大統領(当時)と笑顔で対面した写真パネルが置かれていた。

 被爆で死線をさまよい、「アメリカへの復讐(ふくしゅう)」を誓った軍国青年は、なぜ人生の最終盤で米大統領の広島訪問を歓迎したのか。被爆から76年間の歩みをたどり、坪井さんの思いと次世代に残したものは何かを考えた。

「坪井はここに死す、生きた証しを残そうとそう書いたんじゃ」

坪井さんは被爆の瞬間を「さあ来たと思ったら、ピカーっと光ってね。グワーッと血だらけ」と語りました。ポッドキャストでは、その肉声とともに、武田記者と被爆当日の足取りを追いました。

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 1945年8月6日、坪井さんは広島工業専門学校(現在の広島大工学部)の学生だった。1925(大正14)年生まれの20歳。前年に徴兵検査に合格したが、理工科系の学生の入営は延期され、同世代が学徒出陣していくことに焦りつつも学業に打ち込む日々だった。

 「入隊の日を、皇国のために…

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