第94回【新聞と戦争・アーカイブ】政経記者たち:1

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【2007年11月19日夕刊2面】

 昭和の幕開け、世相を映す朝日新聞の社会面は暗い記事で埋まった。

 「先生も泣かされる 児童のカラのお弁当」

 1927年2月1日の東京朝日には、そんな3段見出しの「欠食児童」の記事が掲載され、厳しい市民生活の様子を伝えた。

 その後も不況と欠食児童の記事は続いた。

 弁当のない子供たちが増えているほか、全国児童のうち5%は栄養不良だという文部省の調査を紹介する記事も載った(30年5月13日付)。学校が配った握り飯を半分残す。中の梅干しを持って帰る。そんな児童もいる、と記事は書いた。

 「家では妹が腹がへつて泣いてゐますから半分やるのです。梅干(うめぼし)は今夜のおかずにするのです」

 30年5月25日には、もらった牛乳を隠して持って帰る栄養不良の子供(9)の話も載った。乳児の弟を抱えて乳の出ない母親のために持って帰るのだという。市内の欠食児童数は31万3千人以上に及ぶ、とする東京市の調査が発表された(31年6月20日付)。

 昭和初期から約10年、朝日をはじめ様々な新聞や雑誌が、都市や農村の貧窮を報告した。

 『中央公論』32年2月号は、衣食に窮した岩手県の農村の状態を紹介し、娘を「ごけ屋(私娼〈ししょう〉の家)」に売ったばかりの青森県の母親の言葉を載せている(下村千秋「飢餓地帯を歩く」)。

 「人の肉を喰(く)つたのは昔の人ばかりではない……わしは今、娘を喰つて生きようとしてゐる」

 『改造』34年12月号は、列車の食堂車から投げられるパンを競って拾う岩手県の子供たちの姿を写真で見せ、「こういふ農村では、凶作は現実に、飢餓の姿で現はれる」(山川均「東北飢餓農村を見る」)としている。

 昭和初期の不況にいたるまで、第1次世界大戦後の戦後反動不況以来の長い景気低迷があった。

 23年には関東大震災があり、京浜工業地帯が壊滅的な打撃を受け、決済不能の「震災手形」が続出した。

 27年3月、この震災手形処理の法案審議中、片岡直温(なおはる)蔵相が過って営業中の銀行について破綻(はたん)したと発言したため、預金者が銀行窓口に殺到する取り付け騒ぎが起き、金融恐慌が発生した。

 そして29年から30年にかけて、日本経済を深い谷底に突き落とす衝撃が国内外で起こった。

 ひとつは、ニューヨーク株式相場の暴落に端を発した世界恐慌。もうひとつは金本位制度への復帰、金解禁政策だった。朝日はこの政策の推進に少なからぬ役割を果たすことになる。

 経済部や政治部に属する、いわゆる「硬派」の記者たちは戦争の時代をどう生きたのか。彼らの姿を追った。(敬称略)

 (このシリーズは佐藤章が担当します)

連載新聞と戦争アーカイブ(全107回)

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