第104回【新聞と戦争・アーカイブ】政経記者たち:11
【2007年12月4日夕刊3面】
41年7月2日の御前会議は「南北統一作戦」を決定した。北と南どちらに進むか。尾崎秀実(ほつみ)は三井物産船舶部の担当者から「北に二十五万、南に三十五万、内地残留四十万」という南方重視の動員情報をつかんだが、最後まで対ソ攻撃への警戒を緩めなかったとされる(『現代史資料2』)。
尾崎の警戒は当たっていた。陸軍は南進に決定した後も対ソ戦方針を捨てず、翌42年春の北進作戦を視野に入れていた。41年に満州で展開しようとした関東軍特種演習(関特演)はその作戦の一環だった(森山優『日米開戦の政治過程』)。
尾崎は、諜報(ちょうほう)の使命を超える行動に出た。対ソ戦を回避させるため、以前からゾルゲに提案していた国内での働きかけを実行したのである。
ゾルゲからの問い合わせに…