プレミアムA「日米開戦80年」
真っ青な空から、強い太陽の光が照りつける。11月初旬にもかかわらず、気温は25度以上。米中部コロラド州の州都デンバーから車で南東に約4時間、人口500人ほどの小さな町グラナダに着いた。
空気は乾燥しており、10分ほど外にいるだけでのどがからからになる。荒涼とした風景のなかに、黄色がかった乾いた草原が地平線まで広がる。
この地に、真珠湾攻撃後、約7500人の日系人たちが強制収容されていた。デンバーからグラナダに向かう道路の脇には、単線の線路が見えた。当時、突然家を追われた日系人たちは、この線路の上を走る列車で連れてこられた。
ほんの少し小高い丘になっている草原に、グラナダ(アマチ)強制収容所の跡地があった。広大な敷地は鉄条網で囲われ、復元された監視塔があった。
「俺たちは何も悪いことをしていない。なのに…」
ロバート・フチガミ(91)は、12歳の時にこの収容所に入った。
当時、両親と8人の子どもたちは、カリフォルニア州北部のユバシティーで農園を営み、桃などを育てていた。だが、1942年5月、米陸軍による退去命令で、20エーカーの農園と野菜畑を奪われる。当局に6日以内に資産を処分するよう命じられ、同州マーセドの一時収容所に連行された。認められた荷物は自分で運べる分だけ。「すべてを失った」とフチガミは言う。
プレミアムA「日米開戦80年」
いまから80年前の1941年12月8日。日本は真珠湾で米海軍を奇襲しました。圧倒的な国力差をわかっていながら、戦争へと至らしめたものは何か。文書や証言から、改めて問います。
約4カ月後、再び列車に乗せ…