第33回【新聞と戦争・アーカイブ】それぞれの8・15:1

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【2007年4月2日夕刊3面】

 「起きよ、起きよ!」

 だれかが叫んだ。

 首相官邸に泊まり込んでいた当時22歳の情報局新聞課員、西村秀治(84)は驚いて跳び起きた。

 1945年8月15日午前4時半。

 廊下に出ると、抜き身の日本刀をひっさげた男がこちらに向かってきた。

 「総理はどこだ」

 徹底抗戦を叫ぶ男たちが、玄関に油をまいて、火をつけた。

 その黒煙を見た者がいた。

 官邸から谷ひとつへだてた麻布市兵衛町(いちべえちょう)。現在の六本木1丁目の一角に、朝日新聞社長、村山長挙(ながたか)の屋敷があった。緑の芝生に防空壕(ごう)が掘られ、イモ畑がつくられていた。

 そこに下宿していた海軍技術大尉の松本重一郎は、門を出たとたん、銃声数発を聞いた。頭をあげると、官邸から煙が立ちのぼっていた(『みゆかり 村山長挙を偲(しの)ぶ』)。

 夜の闇が、朝の光へと移ろいゆくなか、歴史の重いドアが開かれようとしていた。

 朝日新聞出版局で、中国語のグラフ誌「大陸画刊」の編集担当だった那谷(なた)敏郎(84)は当時、22歳。15日はいつものようにカボチャとサツマイモの朝食をとり、出勤した。前日、正午に集合するよういわれていた。

 東京本社の7階講堂に、従業員が集まった。

 天皇の声が流れる。

 「朕(ちん)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑(かんが)み非常の措置を以(もっ)て時局を収拾せむと欲し……」

 すすり泣きの声が響いた。「今後帝国の受くべき苦難は固(もと)より尋常にあらず爾(なんじ)臣民の衷情も朕善く之を知る」のところで、泣き声はひときわ高まった。

 村山長挙が登壇した。しばし無言のあと――。

 「一言ごあいさつ申し上げようと存じますが、何を申すべきか、申し上ぐべき言葉を知らないのであります。事態かく相成る以上、承詔必謹、あくまでも冷たい現実を正視して新日本建設のため朝日新聞社員たる職能を発揮する以外、何の道がありましょう」

 重苦しい雰囲気のまま、集会は終わった。

 その少しあと、社内で食料が配られた。受け取るのは各部の女性の仕事だ。さっきまで泣いていた何人かが、競うように走り出した。「あさましい」とつぶやいた那谷に、先輩がいった。

 「人間というのは、そういうもんだよ」

 その日の午後、宮城(きゅうじょう)から1台のダットサンが走り出た。乗っているのは侍従の岡部長章(ながあきら)。

 行き先は、当時、有楽町にあった朝日新聞社だった。

 (原則として漢字は新字体を使用。敬称略)

連載新聞と戦争アーカイブ(全107回)

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