第4回学籍簿の空白、生徒に教え託す「しゃべる限り、坪井先生は生きる」

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岡田将平
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 校長室の棚に、木箱に入った古い資料がしまってある。茶色くなった表紙には、墨で「昭和二十年八月六日 戦災死児童學籍簿 第三國民學校」と記されている。「戦災死(行方不明)」「戦災死」「戦災死」――。傷んだ紙をめくっていくと、子どもたちの名前とともに、76年前の現実が並んでいた。

 1977年、広島市南区の市立翠町中の校内に眠っていた学籍簿を見つけたのが、教頭だった坪井直(すなお)さんだ。当時、50代前半。学籍簿に書かれていたのは、翠町中の前身で、現在の中学1、2年生にあたる子どもたちが通った第三国民学校の原爆犠牲者。同校の児童は45年8月6日、市中心部で、建物を取り壊して空襲による火災が燃え広がらないようにする「建物疎開」の作業などにあたっていた。

 校内にある慰霊塔に記される死者は210人だが、学籍簿にあるのは半数ほどだけ。死亡日や家族について記されている子もいたが、亡くなった事実と名前だけの場合も多かった。坪井さんが学籍簿を見つけたことを機に、その「空白」を埋め、被爆の実態を明らかにしようと、生徒たちが地域を歩き、遺族や住民に聞き取りする取り組みが始まった。

「8月6日になったら授業やめって言って話をする。原爆の」

戦後、数学の教師として務め始めた坪井さんは、自ら「ピカドン先生」と名乗り、被爆の体験を生徒たちに語ります。ポッドキャストでは、その歩みについて語った肉声が聴けます。

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 二井(にい)正浩さん(59)はその活動にかかわった当時の生徒の一人だ。「生き残っている人もいる。捜してみよう」と活動が始まったことを覚えている。その言葉は「大部分が亡くなったということの裏返し」。原爆の被害をリアルに感じた。地元で起きたことを学び、「広島で生まれ育ったことの意味を考えるようになった」と振り返る。

 坪井さんの被爆体験を聞いた…

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