第77回【新聞と戦争・アーカイブ】戦時統制:1

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【2008年2月25日夕刊3面】

 1936年1月、小原正雄(94)は東京朝日新聞に入社した。朝日を選んだのは「海外の情報が最も早く正確に載っていたから」だった。

 同年10月、小原は社会部に配属された。有楽町の本社3階。社会部の壁には、差し止め事項を印刷した一覧表があったという。

 ○○地域で起きた戦闘については報道禁止、○○の外交交渉については報道禁止……。

 禁止の指示は具体的だった。内務省などが発した規制を朝日がまとめた、統制事項の一覧だった。読み終えて小原はこう嘆息したという。

 「新聞を読んで、世の中の動きが分かるのだろうか」

 日中戦争が始まる、約9カ月前だ。この時点では、統制は、実はまだ本格化していなかった。

 明治期以降、日本の新聞は「新聞紙法」などで統制された。同法は「安寧秩序」や「風俗」を乱す新聞の発売禁止を認め、軍事、外交に関し陸海軍大臣と外相に記事の掲載禁止権を与えていた。

 37年7月に日中戦争が始まると、政府と軍は国内を戦争体制に変質させていった。

 翌38年には、戦時統制を完成させるための「国家総動員法」を制定。41年1月には同法に基づく「新聞紙等掲載制限令」が施行される。

 小原はこう証言した。「一覧表の項目は年々、増えた。印刷の字が次第に小さくなっていった」

 満州事変前から太平洋戦争期まで社内で指導的立場にいた緒方竹虎は、戦後にこう述懐した。

 「満州事変以来……それでもなお多少の新聞的良心を捨てなかったのであるが……国家総動員法が布(し)かれるに至って遂(つい)に手も足も出なくなった」(嘉治隆一『緒方竹虎』)

 言論・報道機関としての朝日新聞は日中戦争が深まる中で窒息した、という証言だろう。

 41年12月8日、日本はさらに米英と戦端を開いた。太平洋戦争の始まりである。編集局はその朝、開戦を伝える夕刊作りに追われた。

 朝日新聞社の村山長挙(ながたか)社長は同日、全従業員に向けて「国民の志気昂揚(こうよう)のために全力を傾尽」せよと「告示」した。

 政府は同13日、国家総動員法に基づき「新聞事業令」を発令する。経営や用紙配給など新聞活動全体を統制する内容で、政府が新聞社事業を「廃止」する権限も認められた。

 当局から朝日に伝えられた記事差し止め事項などを記した文書が今回多数見つかった。戦時中に東京本社整理部にいた加藤万治が保管していた。

 開戦日、12月8日付の文書もあった。「海軍から」と書かれた連絡事項の中に、こうある。

 「報道部発表以外は書かぬやう」

 約3年8カ月に及ぶ太平洋戦争下での新聞報道が、こうして始まった。(敬称略)

連載新聞と戦争アーカイブ(全107回)

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