第53回【新聞と戦争・アーカイブ】戦場の記者たち:1

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【2007年7月11日夕刊2面】

 焼けつくような暑さが、行軍する兵隊たちと、それに連なる記者たちを悩ませていた。

 1938年10月、中国南部・恵州。

 朝日新聞の特派員、末常卓郎は、陸軍の部隊とともに、主要都市の広東(広州)を目指していた。上陸してから日は浅いものの、連日の行軍で疲労は極限に達していた。

 紙面の編集を担当する東京の整理部から、戦火がうねる中国に派遣されたのは、その少し前。日本軍の攻略部隊に同行し、戦場から原稿を送る従軍記者として、である。この時32歳だった。

 その前年、日本軍は、北平(北京)郊外の盧溝橋付近で中国軍と衝突し、戦火は広がっていた。

 末常の最初の仕事は、香港の東、バイアス湾への「敵前上陸作戦」だった。

 各国から香港、広東を経て奥地へつながる補給路を遮断するため、大本営は広東攻略を計画。10月12日、3個師団などからなる第21軍が上陸作戦を敢行した。

 上陸戦はあまり抵抗を受けずに成功した。

 だが、「地獄」はその後に待っていた。

 秋とはいっても、日中の猛暑で長時間の行軍は難しく、さらに悪路が兵士だけでなく記者たちをも苦しめた。

 食べ物はのどを通らず、畑で用を足し、夜間はどぶ川にはまり、落後しそうになりながら、必死で部隊に追いつこうとする従軍記者の苦闘をつづった末常のルポ「紙一枚の重さに喘(あえ)ぐ 難行軍 泥と特派員」は10月21日付夕刊の2面トップを飾った。

 「此(この)日記者は命から二番目の原稿用紙まで棄(す)てながら歩かねばならなかつた……肩を砕くやうなリユツクサツクなので棄てなければ最早(もはや)歩く事が出来ぬ、一番豊富にあるのは原稿用紙だ、紙がなければ字を細かく書きさへすればよい」

 「これは兵隊さん達も同じだつた、故郷へ便りするために残して置いた便箋(びんせん)や絵葉書(えはがき)が部隊が通つた後には一杯棄てられてあるのだ」

 戦後の述懐によれば、実はこの時、小休止ごとに兵隊が弾丸をこっそり捨てるのもみたという。食料の缶詰や弾さえも重荷に感じられるほど過酷な行軍だった。

 明治期から活躍した朝日の記者、杉村楚人冠(そじんかん)は、末常への手紙の中で「朝日の紙上で目に触れたものの中で君の通信が断然異彩を放つてゐる事を認めざるを得ない」と賛辞を贈った。

 今にして思えば、泥にまみれて歩く兵隊たちの苦闘は、戦争の深みにはまりつつあった日本の姿そのものだったのかも知れない。

 そして、末常はその後長く悪夢に苦しめられる出来事を、そこで目の当たりにすることになる。(敬称略)

連載新聞と戦争アーカイブ(全107回)

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