「ニュー・シネマ・パラダイス」の世界があった 山形県西川町

辻岡大助
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 山形県西川町海味(かいしゅう)の食品・酒販店「山竹商店」の前に、さび付いた映写機が置かれている。隣の木柱に〈海味座 思い出の 映写機〉とある。半世紀近く前まで数々の名作を上映してきた映画館「海味座」の銀幕を照らしたものだ。斜陽産業とされて、次々に閉館に追い込まれた地方の映画館の文化を伝える遺産である。

 海味座は1947年に創業。後藤武雄さん(故人)が営む山竹商店に併設し、武雄さんがオーナーになった。西川町と寒河江市を結んだ三山電鉄(山形交通三山線)海味駅の駅前に立ち、周辺の複数の鉱山の労働者とその家族らでにぎわった。木造2階建て490席の館は鉱山技師の設計で、豪雪にも耐えた。

 武雄さんの息子の六郎さん(82)は19歳上の兄、武志さん(故人)と一緒に海味座で映写技師を務めた。「一番の大入りはアラカン(嵐寛寿郎)主演の『明治天皇と日露大戦争』」。3日間、大盛況だったという。

 近くの中学校の「映画教室」にも活用され、68年に生徒たちがセシル・B・デミル監督の『十戒』を鑑賞したという記録も残る。上映時間が長い作品になると、フィルムは7巻ぐらいに分かれていたという。そのため、六郎さんらは映写機を2台並べ、フィルムの取り換えで生じる空白の時間をなくしていた。

 だが、人気の作品ともなると、隣の寒河江市内の映画館と競合してしまう。そこで各館の上映時間をずらし、フィルムを融通し合った。近隣の住民がバイクの荷台にフィルムを載せて寒河江との間を往復したという。六郎さんは「寒河江から次のフィルムがなかなか届かず、よくヒヤヒヤしました」と振り返る。

 日本公開が89年のイタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の一シーンを見ているようだ。六郎さんの長男で、山竹商店を継いだ武郎さん(54)は「その映画の主人公の少年時代のように私も育ちました」と懐かしむ。

 映写機を操る伯父や父の傍らで、映写窓から観客席を見下ろす。笑い声や掛け声、菓子をほおばる音が聞こえ、たばこの煙や客の涙も見えた。フィルムの空白の時間ができると、観客から怒声が上がる。幼心にも、観客からは大人の世界の喜怒哀楽を、銀幕の俳優の服装から流行のファッションを感じ取った。

 武郎さんにとって、海味座は「人生のもう一つの学校」であり、「誇り」でもあった。「今度うちで『東映まんがまつり』や『ゴジラ対メカゴジラ』をやるんだって、友達に自慢していましたね」

 周辺の鉱山は60~70年代に相次ぎ閉山となった。家庭へのテレビの普及に追い打ちをかけられ、海味座は74年11月、三山線廃止の直後に閉館した。建物は2004年に取り壊され、残された映写機2台のうち1台を町歴史文化資料館に貸し出した。倉庫に眠っていたもう1台を店の前に置いたのは武郎さん。「ここに映画館があったという証しにしたかったんです」

 父子の思いは次代に受け継がれたようだ。

 武郎さんの一人娘、沙希乃さん(22)も父や祖父と同様の映画好き。東京音楽大学在学中、NHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」のメインテーマ曲のオリジナル楽譜シリーズでピアノソロ譜の編曲を手掛けた。卒業後、映像作品の劇中音楽を作り、音楽で物語を盛り上げる「劇伴作家」として活躍している。「ニュー・シネマ・パラダイス」はエンニオ・モリコーネ作曲の挿入曲を聴くだけで、様々なシーンを思い浮かべられる。このような映画音楽の巨匠が沙希乃さんの目標だ。

 町から銀幕がなくなっても、映写機が映画文化の余韻を残している。12月1日、日本初の映画が1896年に神戸で一般公開されたことにちなむ「映画の日」を迎える。(辻岡大助)