第6回二つの五輪隔てる時代と世代 30年札幌招致、関心高まらぬワケ

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佐野楓、佐藤亜季
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 1971(昭和46)年暮れ、札幌。

 年が明けた2月にアジア初の冬季五輪が開かれるのを前に街はわき上がっていた。

 札幌は人口増加や自家用車の普及で交通渋滞が深刻化していた。これを解消し、世界中から訪れる多くの選手や観客を会場へ運ぶため、全国で4番目となる地下鉄が開業したのだ。市営地下鉄南北線で北24条―真駒内が結ばれた。

 それから半世紀。

 地下鉄の車両が駅に近づくのを知らせるメロディーが流れる。札幌五輪のテーマ曲「虹と雪のバラード」の一節をアレンジしてある。その部分の歌詞は「生まれかわるサッポロの地に きみの名を書く オリンピックと」だ。

 「南北線は現在運休しております」

 2020年末の朝、北海学園大学1年だった岩渕航平さん(20)が登校のため南北線麻生駅(札幌市北区)に着くと、駅員が拡声機で告げていた。沿線の北34条駅(同)で浸水が発生していた。行列のできた代替バスで大学へ向かったが、遅刻した。地下鉄があるという当たり前を、初めて意識した。

 岩渕さんと市営地下鉄にはつながりがある。母方の祖父、故・木戸喜一郎さんは、地下鉄開業の71年当時、市交通局で開通計画のプロジェクトメンバーだった。その後、西区長や経済局長、総務局長を経て助役(現在の副市長)を務め、1994年に退職した。

 祖父宅には、南北線開通時を記録したノートや札幌五輪の記念切符など、時代の雰囲気を伝える品が残る。祖父からもらったおもちゃも、初代車両の模型だった。

 当時の話を祖父から直接聞いた記憶はないが、「地下鉄をつくった人」ということは子どもながらわかっていた。学校の調べ学習で札幌五輪を学ぶうちに、五輪開催に合わせて開通した地下鉄をはじめ、祖父たちの世代が築き上げたインフラが街の発展を支えてきたことに気がついた。

 大学生になった今、当時を知る人に尋ねると、多くが活躍した選手の名や街の盛り上がりを口にする。「五輪は札幌の人々にとって大事なもの」。その思いは岩渕さんにもある。

 札幌市の人口は70年に100万人を超えた。翌年には地下鉄、中心部の大通駅地下街、北海道高速道路ができた。

 だが、それまではインフラ整備が遅れ、高度成長にのる東京、大阪、名古屋に比べて見劣りしていた。66年、過去2度の挫折を経て札幌は冬季五輪開催地に決まる。64年東京五輪の開催が59年に決まり、日本が戦後復興を成し遂げたように、札幌も五輪開催をテコに現在への発展の礎を築いた。

 72年札幌五輪は大成功に終わった。インフラ整備はさらに進み、人口197万人の観光都市に発展した。札幌市民にとって、五輪は強烈な「成功体験」なのだ。

 「72年の札幌大会は、札幌…

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