「怒ってばかりじゃいかんぞ」 松井秀喜育てた名将、再出発前の境地

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塩谷耕吾
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部活文化を問う

 そうやない! バントはこうやるんや!

 高校生に必死に技術を伝えようとする。その自分の声で、山下智茂(76)は目を覚ました。

 またか――。

 10月はじめ。星稜高の野球グラウンド(金沢市)に隣接する自宅の寝室で体を起こし、苦笑した。最近、週に2、3回は野球を教えている夢を見て、朝を迎える。

 あるときはサインプレーの伝達方法を教え、あるときはノックバットを振っていた。

 「教える楽しみ。もう、ワクワクしているんだね」

 星稜高を率いて春夏通算25回の甲子園出場を果たした山下は2005年夏の終わり、60歳を機に監督を辞した。現場を離れて16年、同校の名誉監督やテレビ解説者、指導者を養成する甲子園塾塾長などを務めた。

 来春から母校・門前高(石川県輪島市)野球部のアドバイザーとして再びユニホームを着ることになったのだ。

 「前は甲子園で日本一になろうと、命がけで教えてきた。そこにはいろいろと、反省はある」

連載「子どもとスポーツ」の第4部のテーマは「部活」。甲子園の名将でもあり、松井秀喜さんも育てた山下さんは長い監督生活の中で「納得」の大切さに気づきました。実は松井さんとの関わりでもエピソードがありました。

野球漬け・おやじ・鬼…

 1967年4月、駒大卒業後に新設校の星稜高野球部監督に就任した山下は、酒もたばこもやめた。

 「日本一になるために野球の神様にすべてを捧げた」

 野球漬け……。昼食の時間も惜しみ、おにぎりをかじりながらバットを振ったこともある。「1ミリでも生徒を伸ばしたい。その一心だった」

 自宅には生徒を6人程度、順繰りに泊めた。「家族野球。監督ではなく、おやじ。そんな感じで生徒と接していた」。一緒にご飯を食べ、風呂に入る。振り返れば、「妻が大変だったと思う。朝昼晩のご飯を食べさせて、洗濯で寝る間もなかっただろう」。

 同じ頃、横浜高の渡辺元智監督(当時)が新婚当時から、大阪から来た選手とアパートで共同生活していたと後で聞いた。愛知・東邦高の阪口慶三監督(当時)ら、周囲に「鬼」と呼ばれる指導者が多かった。

 「真剣に教えれば、自然とそうなる。それが当たり前だと思っていた」

 鍛えあげた成果は出た。就任5年目、72年夏に甲子園に初出場すると、76年夏に4強に進出した。

 昭和から平成にかけて38年間の監督生活。その中で、山下の指導も変化していったという。79年夏の甲子園で、和歌山・箕島高と延長18回の名勝負を繰り広げた。笑顔でどっしりと指揮を執る敵将の故・尾藤公監督に感服し、勉強会を開いてもらったり、本や新聞を読んだりして勉強した。

 “尾藤スマイル”をまねようと、玄関の鏡の前で練習した。

 昭和が終わる頃、山下のノックに音を上げた選手がいた。「ノックを受けて足腰やフットワーク、瞬発力を鍛えることで、打球の飛距離が伸びるんや」。そう説明した。

 納得した選手は前向きに練習に取り組むことに気がついた。

 90年に入学した松井秀喜は、打撃は1年時から飛び抜けていたが、足が遅かった。旧知の医師に相談すると、「下り坂を走るといい」という米国の論文を紹介された。

 それを翻訳してもらい、松井に説明すると、「やります」。

 グラウンド横の15度の勾配…

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    中小路徹
    (朝日新聞編集委員=スポーツと社会)
    2021年12月12日16時10分 投稿

    【視点】 地域クラブが浸透しているドイツでは、「教える人もプレーヤー、という発想がある」と聞いたことがあります。  自分のためにも楽しいから教える。スポーツの構成員として、プレーする側と対等の関係なのです。記事を読むと、山下さんもその境地に入って