「鬼滅の刃」残された三つの謎 最終話を谷川俊太郎の詩で読み解く

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太田啓之
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 5日から新作「遊郭編」がスタートするテレビアニメ「鬼滅(きめつ)の刃」。これを機に、物語と個人、社会の相互関係について考え続けてきた記者が、原作漫画「鬼滅の刃」を巡る「三つの謎」に挑みます。原型となった短編漫画を「超メジャー作品」へと飛躍させた決定的な要素とは何か。憎むべきはずのラスボス・鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)の「私に殺されることは大災に遭ったのと同じだ」という言葉の真意とは何か。そして、最終話に秘められた読み手への「メタ・レベルのメッセージ」とは? 詩人・谷川俊太郎さんの作品も引用しつつ展開されるスリリングな謎解きをお楽しみください!

(この記事は漫画「鬼滅の刃」の結末の内容に触れています)

 「鬼滅の刃」の原型となった作品は、作者の吾峠呼世晴(ごとうげ・こよはる)さんが2013年、「少年ジャンプ」の新人漫画賞に応募して佳作を受賞した「過狩り狩り」(「吾峠呼世晴短編集」に収録)という短編だ。明治~大正時代、壮絶な訓練を受けた剣士が「悪鬼滅殺(めっさつ)」と刻まれた剣を手に、闇に潜む鬼を狩るという物語の基本構造は、ほぼ「鬼滅の刃」と共通する。

 しかし、「過狩り狩り」の設定のまま、雑誌連載を始めたとしても、「鬼滅」のような国民的人気を獲得するどころか、短期間で打ち切りになっていた可能性が高かっただろう。そこから「鬼滅の刃」へと至る吾峠さんと担当編集者の苦闘は、想像するにあまりある。「過狩り狩り」という「良質なマイナー作品」を、「鬼滅の刃」という「大衆の心をわしづかみにする超メジャーエンターテインメント」へと飛躍させたものは、いったい何だったのか。

 私は以前の記事で、「鬼滅の刃」がもたらす感動には、ナショナリズムのもたらす高揚感と共通するものがある、と指摘した。社会学者の大澤真幸さんによれば「国民=ネーション」という共同体が、「われわれという一体感=ナショナリズム」を持つためには、「我々の死者」という存在が必要になる。

 「かつて自分たちのために力を尽くし、死んでいった人々=『我々の死者』がいた。自分たちもその思いを引き継いでみんなのために力を尽くし、後の世代へと引き継いでいく」という時空を超えた連帯感、「我々の死者」の連鎖こそがナショナリズムの本質なのだ。

 「鬼滅の刃」で「我々の死者」を体現する1人が、煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)だ。

 「鬼滅の刃公式ファンブック鬼殺隊見聞録・弐」に収められた短編「煉獄零話(ぜろわ)」では、鬼を倒すために自らを犠牲にした鬼殺隊の同胞たちに、杏寿郎は心の中でこう語りかける。

 「みんなのお陰で命を守れた」「ありがとう最期まで戦ってくれて 自分ではない誰かの為(ため)に」「君たちのような立派な人に いつかきっと俺もなりたい」

 その言葉通り、杏寿郎は「無限列車編」で、列車の乗客と主人公の竈門(かまど)炭治郎たちを守るために全力で戦い、命を落とす。その思いを今度は炭治郎たちが引き継ぎ、鬼たちの首魁(しゅかい)である鬼舞辻無惨との最終決戦に臨む。「みんなのために戦って命を捨てた『我々の死者』たちを決して裏切らない。彼らの犠牲を無駄にはしない」という思いの連鎖、絆の連鎖こそが「鬼滅の刃」のメインテーマ(主題)であり、それは作品の中で繰り返し、繰り返し、変奏される。

鬼と人の「全面戦争」か、「パワーバランス」か

 「我々の死者」の思いを受け継ぐナショナリズムが最も高揚するのは戦争、それも第2次大戦のように「国民の一人ひとりが、みんなのためにすべての力を振り絞ることが要求される総力戦」の時だ。

 そして、戦争では必ずと言っていいほど「我々の正義」と「敵の悪」が強調される。太平洋戦争の時に、日本が敵国のことを「鬼畜」と呼んだように。

 「鬼滅の刃」も物語の中盤までは「単独、あるいは数体の鬼と数人~数十人の鬼殺隊員との戦い=限定的な局地戦」だったのが、クライマックスでは鬼殺隊がすべての戦力をつぎ込み、「許されない悪」である鬼たちの完全な殲滅(せんめつ)を目指す「一夜限りの全面戦争、総力戦」へと移行していく。

 一方、「過狩り狩り」では、「鬼狩り=善」「鬼=悪」という図式は存在しないし、そもそも鬼狩りたちは、鬼の殲滅など目指してはいない。「過狩り狩り=狩り過ぎる者を狩る」というタイトルが示すように、鬼狩りたちが目的とするのは「人間を狩りすぎる鬼たちを狩ることで、鬼と人間、食う側と食われる側のパワーバランスを保つ」ことだ。作中での主人公の仕事は、実質的には害獣を駆除する猟師に近い。

 しかし、猟師のような鬼狩りたちの間には、鬼殺隊の隊士たちほど強烈な「一体感・連帯感・高揚感」は存在しえないだろう。「鬼滅の刃」が、大衆の心をわしづかみにするエンターテインメントとして成立するには、やはりナショナリズムを燃え立たせる場合と同様に、敵は「殲滅されるべき絶対悪」である必要があったのだ。

 最終決戦のさなか、満身創痍(そうい)の炭治郎たちに無惨はこう言い放つ。

 「私に殺されることは大災に遭ったのと同じだと思え」「雨が風が 山の噴火が 大地の揺れが どれだけ人を殺そうとも 天変地異に復讐(ふくしゅう)しようという者はいない」

 「死んだ人間が生き返ることはないのだ いつまでもそんなことに拘(こだわ)っていないで 日銭を稼いで静かに暮らせば良いだろう 殆(ほとん)どの人間がそうしている 何故(なぜ)お前たちはそうしない?」

 「理由はひとつ 鬼狩りは異常者の集まりだからだ 異常者の相手は疲れた いい加減終わりにしたいのは私の方だ」

 この場面、大半の読者は炭治郎と同様に、無惨への心からの嫌悪・憎悪を抱くだろう。しかし、私自身はこう考える。

鬼舞辻無惨の言葉に「反論」できない私たち

 無惨の「私に殺されることは…

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