語り継がれてきた「広く深い海」 翻訳で伝えたいチベットの人々の声

有料会員記事

聞き手・山根祐作
写真・図版
大学の自分の机でチベット語の本を開く星泉さん=東京都府中市、山根祐作撮影
[PR]

 「世界の屋根」と呼ばれるヒマラヤに抱かれ、平均標高が4千メートルを超すチベット高原。雄大で過酷な自然や、長い伝統を持つ宗教、中国での少数民族問題などでしばしば言及されますが、そこに暮らす人々の肉声が伝わる機会は決して多くありません。チベット語と文学を研究する星泉さん(54)は、言葉を通じてチベットの今に想像力の翼を広げてほしいと願っていると言います。「ご縁」だというチベットとの出会いや、実は日本人に親しみやすい面もある言葉の学び方、そして文学の魅力について聞きました。

ほし・いずみ

 1967年、千葉県生まれ。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授。チベット語研究のかたわら、チベットの文学や映画の紹介活動も行っている。主な著書に「現代チベット語動詞辞典(ラサ方言)」(同研究所)、訳書に「雪を待つ」(ラシャムジャ著、勉誠出版)、「白い鶴よ、翼を貸しておくれ」(ツェワン・イシェ・ペンバ著、書肆侃侃房)など。雑誌「チベット文学と映画制作の現在 SERNYA」編集長。

 ――チベットとの出会いはどのようなものだったのでしょうか。

 「うちの母親は、チベット語の研究者でした。東京外国語大学での専攻はモンゴル語だったのですが、モンゴルとチベットは歴史的にも関係が深いので『チベット語をやってみたら』と先生に勧められ、チベット語を始めたそうです。幼いころ、夜寝るときに聞かせてもらう話も、いつも母が採集したチベットの民話でした。私は、おばけや魔女の話が大好きでした」

 「チベット人が我が家に遊びに来ることもよくありました。お客さんが大勢になると、みんな大きな声でよく笑うんです。チベット人は『よく笑う人たちだな』と思っていました。家にしばらく滞在していたチベット人のお坊さんの周りを弟と一緒にふざけて走り回っても、お坊さんがニコニコしていたのを覚えています」

 ――ご自身もチベット語研究の道に進んでいかれたのですね。

 「チベット語を本気で学んでみたいと思ったのは、大学3年の春休みに友だちとインド旅行に行ったのがきっかけです。そのときに母の知人のチベット人の家を訪ねて、チベット暦の正月を一緒に過ごしました。親戚の人たちも大勢集まって、一緒に歌ったり楽器を演奏したりと、とても楽しかったんです。何よりもチベットは『人がいいな』と思いました。ユーモアがあってやさしくて、いつも相手を楽しませようとしている人たちなんです。言葉も、まるで音楽を聴いているみたいでとてもきれいだな、と感じました。この人たちと話ができたら楽しいだろうな、この言葉をしゃべれるようになりたいなと強く思いました」

 「それからの学生時代は、田舎のおばあちゃんの家に遊びにいく感じで、インドのその一家を何度も訪ねました。私がうまくチベット語を話せないのに、耳で聞いた言葉をいつもノートにメモしていたので、『新聞記者に憧れる幼稚園児のようだね』とからかわれたこともありました」

写真・図版
1998年7月、インド北部のデラドゥン郊外で、親しいチベット人女性のベティさん(左)と並ぶ大学助手時代の星泉さん=本人提供

 ――チベット語は、世界でどれぐらいの人に使われていますか。

 「中国国内ではチベット自治区、青海省、四川省雲南省などのチベット高原と呼ばれている平均標高4千メートル以上の地域を中心にして、中国以外ではインド、ブータンネパールパキスタンなどで計600万人ほどの人が使っているとされます。欧米などに移住したチベット人十数万人も使っています。広大な地域のため方言は多様で、大雑把に分けると六つのグループがあります。それぞれが別の言語と言ってもいいぐらい違っていて、その中でまた方言が分かれている。ただ、それぞれの方言を文字にすると、読んでお互いに意味が通じる部分が多いです」

 ――文法には、どのような特徴がありますか。

 「語順は日本語とよく似ていて、主語+目的語+動詞の基本的な構造になります。助詞や接続詞の位置も似ているので、音だけだったら、日本語の話者にとってはとても勉強しやすい言語です。日本語を思い浮かべながら単語を並べていくだけでも文はできます。ただ、形容詞や指示詞が名詞の後ろに来るのが違うところです。例えば、日本語なら『その+有名な+お寺』と表現するところをチベット語では『お寺+有名な+その』となります」

 「面白いのは、チベット語に『ウチ』と『ソト』の文末表現の使い分けというのがある点です。話題の事柄が、話者自身にとって関係の深い事柄かどうかを明示する言語形式があるのです。同じ事柄でも『ウチ』と『ソト』の文末表現を使い分けるので、その使い分けから、話者が事態をどう見ているかがわかったりします」

 ――チベット語を勉強したいと思ったら、どのように始めたらいいでしょうか。

 「他の言語ほど教科書が多くはないのですが、まずは教科書を手にとって、音声を聞きながら発音を耳になじませていってほしいと思います。チベット文字は7世紀ごろに成立して長い歴史があるのですが、昔のままのつづりを1千年ぐらい使い続けているため、現在の実際の発音との乖離(かいり)が大きくなって、発音しない文字も多くなっています。ですので、文字を習得するのは容易ではなく、もし初学者が文字から始めると挫折してしまうことが少なくありません。まずは、発音から入っていただければと思います。その上で文字に入り、書き言葉を学ぶようになれば、方言の違いを超えて共通の部分が多い書き言葉は、広大なチベット文化圏へのパスポートとなるでしょう」

写真・図版
チベット文字で書かれた辞典や小説。チベット文字は7世紀ごろに成立したとされる=東京都府中市、山根祐作撮影

 ――独学では難しそうな気もしますが。

 「いろいろなところで初学者向けのチベット語講座がありますし、今はオンラインの講座もあります。ただ、学習を続けるのは容易とは言えないので、まずは勉強仲間を作るということを一つの目標にしてもいいかもしれません。私も一緒に学んだ人たちとよく読書会や翻訳会をしましたが、それが後にチベット文学の翻訳につながっていきました。チベット人留学生と交流したり、チベット人が開いている料理店で店主に話しかけてみたりするのもいいですね」

 ――チベット現地でのチベット語を取り巻く環境は、現在どうなっていますか。

 「中国のチベット族の中で…

この記事は有料会員記事です。残り3160文字有料会員になると続きをお読みいただけます。
【1/24まで】2つの記事読み放題コースが今なら2カ月間無料!