昭和天皇「顔が紅潮ご興奮」 開戦議論後 百武侍従長日記の主な記述

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 百武三郎(ひゃくたけさぶろう)の侍従長時代の日記のうち、1941年の主な記述を抜粋した。原文のカタカナはひらがなに改め、適宜濁点やルビを振った。日記や手帳は東京大学大学院法学政治学研究科付属近代日本法政史料センター原資料部に2019年に遺族から寄託され、今年9月から遺族の許諾を得れば閲覧可能となっている。

プレミアムA「日米開戦80年」

いまから80年前の1941年12月8日。日本は真珠湾で米海軍を奇襲しました。圧倒的な国力差をわかっていながら、戦争へと至らしめたものは何か。文書や証言から、改めて問います。

 6月9日 △御睡眠不足の如(ごと)く拝す 近時外交上の懸案御軫念(しんねん)(心配)の結果かと拝察す、何とか御気先転換の策なきものにや

 6月23日 △龍顔(りゅうがん)(天皇の顔)稍(やや)御睡眠御不足の色あり 独蘇(どくそ)開戦の影響を思へば御軫念の程(ほど)誠に恐懼(きょうく)の至也(いたりなり)

 〈日米交渉が進展しない中、1940年に日独伊三国同盟を結んで頼みにしていたドイツが6月22日にソ連と戦争を始めた。外交問題に対する心配から、天皇は睡眠不足の様子だと百武は記した〉

 7月18日 △内外切迫の際此(この)政変に際し思ひしよりも泰然自若たる聖容を拝す 蓋(けだ)し松岡(洋右外相の)外交の対米交渉の不真面目なる態度に御不満の点あり 其(その)清算なるが故かとも拝せらる

 ○結局は松岡渡欧は我外交にも松岡自身にも失敗なりしと断ずるの外なし

 〈戦後に天皇の回想を側近が書き留めた「昭和天皇独白録」によると、天皇は松岡洋右(ようすけ)外相の強硬路線に反対し、近衛文麿(このえふみまろ)首相に松岡の罷免(ひめん)を求めた。近衛内閣は7月16日に総辞職し、外相を交代させた第3次近衛内閣を18日に組閣した。百武は「松岡外交は失敗だった」と批判し、外相更迭で天皇の表情もすっきりした様子だったと記した〉

 9月1日 △聊(いささ)か御疲労の様に拝せらる 御歩行活潑(かっぱつ)にあらせられず 国際関係に対する御宸稔(しんねん)(軫念=心配)其因たらざるか 誠に恐懼の至也

 〈7月末の南部仏印(ふついん)(インドシナ半島南部)への日本軍進駐に対抗して、米国が資産凍結や石油禁輸などの経済制裁を発動。事態打開のため近衛首相は8月に日米首脳会談をもくろんだが実現に至らない。天皇は外交に対する心労が重なり、歩みも活発でない様子を百武が心配した〉

 9月6日 △此日重大会議に臨御(りんぎょ)の際はさすがに御緊張の御様子御歩行の裡(うち)にも拝察せられ畏(かし)こき極みに覚へたり

 邦家(ほうか)(我が国)の存亡、民族の隆替(りゅうたい)に関する重大問題意外に平穏裡に決定するを見る

 9月25日 ○木戸(中略)内府(内大臣)曰(いわ)く先頃の御前(ごぜん)会議に於(おい)て陛下は枢相(原嘉道(よしみち)枢密院議長)の質問に対し(及川古志郎)海相の答辞のみにて統帥部(とうすいぶ)(軍幹部)の黙し居ることに御不満にて「四方(よも)の海」云々(うんぬん)の明治天皇の御歌を用意ありて統帥部が外交を先きにし之(こ)れを強く援助するを要する旨仰せあり 一同非常に緊張 爾来(じらい)政、軍協力して事を進め居る

 〈10月上旬までに日米交渉がまとまらなければ開戦を決意するとした「帝国国策遂行要領」を決定した9月6日の御前会議。天皇は発言しないという慣例をこの日、昭和天皇は破った。祖父の明治天皇が平和を願って詠んだ「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」(四方の海はみな同胞と思う世なのになぜ波風が立ち騒ぐのだろう)の歌を読み上げ、戦争準備より外交を優先するよう軍部に求めた。百武は後日、木戸幸一内大臣から会議の様子を聞き、25日の日記に記した〉

 10月9日 午後一時半(伏…

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