もしも瀬古利彦と直接対決していたら? 福岡制した中山竹通の答え

有料会員記事

堀川貴弘
[PR]

 中山竹通(たけゆき)にとってマラソンは自己表現の場だった。

 「マラソンは自分でドラマを作らないといけない。与えられた台本ありきではつまらない」。61歳のいま、そう語る。

 そんな思いが凝縮されたレースが、1987年の福岡国際マラソンだった。

 翌年のソウル五輪の代表選考会として開かれた第41回大会で、スタートから5キロあたり14分30秒台のハイペースで飛ばし、14キロ過ぎから独走した。

 中間点の通過タイムは1時間1分55秒。現在、鈴木健吾が持つ2時間4分56秒など、ここ4年間で4度日本記録が更新されているが、中間点はいずれも中山のタイムより劣る。いかに高速レースだったかが分かる。

 ペースメーカーという「台本」がない舞台で、自分でストーリーを組み立て、主役を演じた。

 35キロを、当時カルロス・ロペス(ポルトガル)が持っていた世界最高記録(2時間7分12秒)を49秒も上回る1時間44分25秒で通過。後半、土砂降りの雨もあってペースダウンしたが、2位の新宅雅也に2分16秒の大差をつける2時間8分18秒で2度目の優勝を飾った。レース後の日本陸連強化委員会で五輪代表に内定した。

 当時をこう振り返る。

 「1キロあたり3分ペースでいけば2時間6分35秒で走りきれる。でも、それじゃあ面白くない。無謀なペースであることは自分でも分かっていたが、それでも夢を追わないと感動がない。感動がないとレースで勝っても忘れ去られてしまう」

 「プロ」であることを強く意識していた中山にとって、ファンの印象に残らないことほど寂しいことはなかった。

 「スピード感があって、沿道の人が自動車のF1を見ているようなレースが理想だった」

 このレースを語るのに、欠かせないのが瀬古利彦の存在だ。

 けがでこの大会を欠場した瀬…

この記事は有料会員記事です。残り867文字有料会員になると続きをお読みいただけます。