「油絵の具を送ってほしい」手紙に夢込めて 戦地で描き続けた画学生
(連載)声なき遺言 画学生と戦争:1
【栃木】召集令状を受け取った翌日だった。24歳の画学生・伊澤洋は、生家の前に画架を立てた。
ひと筋の土の道が真っすぐ延びる。木々の葉が覆いかぶさるように茂っている。これから銃を握らされる手に絵筆を取り、慣れ親しんだ光景に向き合った。
1941年夏、満州事変から始まった中国侵略戦争が長期化し、米英との開戦が刻々と迫りつつあった。
「風景」と題された。縦長の12号大(縦61・1センチ、横55センチ)。いまは長野県上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」にある。館主の窪島誠一郎さん(80)は約30年前、現地に立った。
「遠近法で描かれた道の果てに、白いもやがかかっているように見えますが、行き止まりではありませんでした。静けさと寂寥(せきりょう)感。出征に向かう切実な心情と彼の宿命が表れていると思いますね」
ほどなく、伊澤は、宇都宮市の陸軍51師団歩兵66連隊に入った。すぐに旧満州(中国東北部)チチハルに送り込まれた。
その道を再び歩くことはできなかった。
17(大正6)年2月、栃木県旧吉田村(現下野市)に生まれた。戦後生まれのめい、山口方子さん(75)は、亡き両親の話から伊澤の人となりを思い描いてきた。
「母は叔父と同じ小学校の同級生でした。校庭の隅で絵を描く姿をよく見かけた、と話していました」
戦没画学生の一人として伊澤がとり上げられた「祈りの画集」(1977年)には、絵が好きだった伊澤少年が成長し、画家の道を歩み始めることになった成り行きがつづられている。山口さんも同じ話を聞かされたことを覚えている。
伊澤が旧制石橋中学4年のころ、祖父が栃木市出身の画家・清水登之の画集を買ってきた。一枚一枚めくっていくうち、画家になりたいとの思いを募らせた。中学を卒業して3年が過ぎたころだった。伊澤は農作業中にケガをした。
なぜ農作業に身が入らないのか。家族に問い詰められて、本心を明かした。
「絵の勉強がしたい」
「上京を認めてはどうか」。兄の故・民介さんが父親に頼み込んだ。
伊澤家で代々大事にしていた庭のケヤキを切り、学費の足しにした。東京の絵画予備校・本郷洋画研究所で学んだ後、難関の東京美術学校(現東京芸術大学)油画科に進んだ。
出征してからも伊澤は絵を忘れなかった。無言館には伊澤が戦地で描いたスケッチや絵入りの軍事郵便が展示してある。「新版 戦没画学生人名録」(2009年)に伊澤が家族にあてた文面が記されている。
「小生も軍務の間は努めてスケッチをして居(お)ります」「今後も努めて斯(こ)の道の勉強をしたいと思って居ります」
そして、「油絵の具を送ってほしい」と頼んだ。
無言館に展示された伊澤の絵の前で来館者の多くが足を止める。
窪島さんは思う。
「志のある若者たちが生きたいと思っても生きられなかった。彼らは今のような時代を良しとするだろうか。我々は自分自身の問題として時代を凝視しているだろうか。彼らの絵は問いかけていると思いますね」
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日米開戦から8日で80年になる。戦地に消えた画学生が残した作品から、戦争の時代と今をみつめる。(中村尚徳)